良心 |
いい感じの曇り空に覆われた清涼な朝のことでした。わたくし、その日は熱に浮かされながらもなんとかバイト先の夜勤を勤め上げ、最後のゴミ出しも終わり、今か今かとシフトの交代を待っておりました。と言いますのも、日曜日の朝は人手不足という不条理極まる理由で夜勤の二人のうちどちらかが一時間ほど残業しなければなりません。深夜の頃、相方にわたくしが残ると自分で言っていたのですが、あまりにも発熱がひどく、立っているだけで毛穴から汗が吹きだしてくるものですから、ついに終業一時間前に、やはり体調が悪いので残業を代わっていただけないかと申し上げたのでした。相方は不承不承ながら承知してくれました。この相方の不服の原因は、ひとつにはもうあと少しで上がれるという期待をぶち壊されたということ、そしてもうひとつには別の作業をしながらついでのようにお願いしたわたくしの態度に問題があったのだと思います。こういうところは常々恥ずべき性格だとわたくしは反省せねばなりません。自分で任せろと言っておきながら結局なんだよ、という自らへの気恥ずかしさもあり、相手の顔をちらちらとしか見られなかったというのは言い訳にしかならないでしょう。元々この日は彼が残業をする予定だったのだからいいじゃないか、という傲慢が少なからず胸の内にあったこともまた認めなければなりません。わたくし、バカ者です。人に頼みごとをするには、誠意という約束手形が必要なのです。 さて、そういうわけでなんやかんやと終業二分前になり、次のシフトの方が出てこられました。最後にこの方とちょっとした引き継ぎと点検をすればこの労働からもさよならです。ですが現実はそう上手くはいかないものです。いつもなら二、三分で終わる点検。相方、どういうわけかひどく時間がかかります。さらにさらに、隣で監督していなければならない交代の方も、その遅さに業を煮やしたのかふらふらと別のコーナーで作業をはじめました。わたくし、むっとしながらも既に終業を過ぎた無給労働を耐えます。なに、たったの十分くらいです。爽やかに待つのが一番さ、と心の中で呟きながら。ようやく点検が終わり、次はわたくしの番です。と、ここで再び障害が立ちはだかりました。深夜時間中のわたくしの業務に不備があるとして交代役の方がやり直しを命じたのでした。そのほとんどは引き継ぎした上で彼の業務になるはずなのですが、けれど完璧な状態で引き継がなかったわたくしに非があるといえばそうなのですから、ここでもわたくし、素直に「わかりました」と頷いて仕事をはじめます(素直に、という言葉をなにか含んだ意味にとられてしまうとわたくしは非常に悲しく思わざるを得ません。本当にわたくしはそうとだけ思ったのですから)。と、そのとき交代の方が「今日はどちらが残るのですか」と訊ねられました。残業のことです。わたくしの相方が「急遽、僕が残ることになりました」と答えました。わたくしは聞こえなかったふりをしました。 ところで月曜の朝というのは、わたくしの務めるバイト先ではお客様の書き入れ時でございます。交代時間の前後は特に店の中がごった返し、並ぶ、並ぶ、長蛇の列のごとくお客様が並びます。それもこの日は過去ないほど。わたくしの不備というのも、この混雑を予想せずにいつも通りの業務を行ったために起こったものなのですが、しかしわたくしは予言者ではありません(もちろんそんな想いは胸の奥にしまっておきます)。 さて、一方のカウンターでは残業をはじめた相方が対応をしています。ですが、既に業務時間が始まっているはずの交代者様はいまだにのほほんと別のコーナーでなにやらよくわからないことをしています(この「のほほん」については、わたくしの心情を汲み取っていただくための比喩だと推察される方もおられるでしょうが、ここではわたくしは敢えてなにも言いますまい)。仕方なく業務を中断してわたくしもお客様の対応に当たります。お客様のご要望に応えれば応えるほど、わたくしのやりかけていた業務は増えていきます。これではいつまでたってもキリがありません。ふと、交代役の方を目で探すと、いません。いつの間にやらどこかに忽然と姿を消されたのでした。わたくしのイライラメーターが三ヶ月ぶりに閾値を越えた瞬間でした。というのも、彼はわたくしに業務のやり直しを命じたように、自分の方ではわたくしたちにいつだって四角四面と完璧を求めておきながら、はてさて自分の仕事は放棄するとはどういうことでしょうか。いつだったか彼が寝坊して遅刻されてきたとき、点検と確認は無事に終わっていることを告げると、それは次の交代者である自分と一緒にしなければならない、それが規則だ、と宣ってわたくしも相方も思わず目を見張ったものでした。 しかし、まだここまでなら、わたくしは自分の気持ちをコントロールし、快く別れの挨拶を告げて帰宅の途についたことでしょう。いえ、たとえ心の中はそう清々しくはいかないとしても、表面上はまだなんとか取り繕えたはずです。 お客様の波が引いていくタイミングに合わせるように戻ってきた彼は、その後もわたくしが命じられた業務を終えるのを後ろで黙って見届けていました。わたくしは彼が次になんと言ってくるか予想がつきました。というのも、その業務にはよく不慣れな者が犯しがちなミスがあったのです。彼はおそらく、わたくしがそのミスをもするに違いないと踏んだのでしょう。自分の仕事を放ってどこかに消えていたことを恥じる様子も詫びる様子もなく、臆面もなく次の瞬間には彼がそのことを確認してくるだろうと予測していたわたくしは、注意深く気を配りつつ業務を終えて彼に暇を告げようとしました。するとやはり、彼はわたくしを引き留めて言いました。 「これはどういう風にやったのですか」 耳の裏で激しく血液が逆流しました。怒りで声を震わせながらわたくしは自分の正しさを説明しました。皆様方はなぜ怒るのかと思われるかもしれません。むしろそれを予想して「してやったり」なのはこちらなのだから逆に意気揚々と笑って説明してやればいいと思われるでしょうか。しかしわたくしは、たしかに彼がこういった罠を仕掛けているかもしれないという予想はしていたものの、こうして現実に言葉にされてみて初めてわたくしに向けられた悪意を肌に感じたのです。ええ、悪意ですとも。なぜそんないやな感情を向けられなければならないのかわかりませんでした。これを悪意というのは大げさだと皆様方の中の何人かは仰るかもしれません。残念ながらわたくしはそれに反論する術を持ちません。自意識過剰と思われても仕方ないでしょう。しかしたとえ彼が単純にわたくしを試そうとしただけだとしても、わたくしに無給労働を強いる権利があるでしょうか。たしかにそこに悪意があると断ずるのは早計かもしれません。しかし明らかに言えることは、彼には良心こそまったくないということです。わたくしの間違いを見つけ、正すことだけが目的なら、せめて無駄な時間を取らせまいとするのが彼の見せるべき良心ではないでしょうか。わたくしはこう思うのです。 この働くという経験を通して、いえ、もっと大げさに言えばこの短い人生を生活していて時折思うのは、大人になればなるほど、良心を稼働することのできる人間があまりにも少ないということです。思いやりと言い換えることもできるでしょう。子どもの頃に何度も何度も「思いやりのある人間になりなさい」と言われて育ってきながら、わたくしたちは社会で成長していくうちにやがてそんな綺麗な言葉よりもっと肌に馴染む強力な経験に屈服し、いつの間にか「思いやり」というものは、持つべきものから次第に持てたらいいなくらいのものへと代わり、やがて社会でうまく生きていく上では持っていてもむしろ邪魔になるものへと変わっていく。もしくは特定の人だけへと向けられたり、限定的で打算的な何かに変わっていく。書き入れ時のめんどくささにそっぽを向き、その穴埋めにわたくしを弾劾しようとした彼のように。 そんな態度はは気づかぬうちに、悪意と同じ、もしかするとそれ以上の打撃を他人に与えているのです。同時に、他人に思いやりを向けられないことは、悪意を向けてしまうことと同じくらい、人としての良心を損なっているのだとわたくしは思います。 しかし以上のことはこの一連の出来事でのわたくしの些末な想いの切れ端に過ぎません。わたくしが真に思い悩むのは、結局わたくしは怒り心頭のあまり、相方にも、交代する方にも一言も挨拶することなく店を出てきてしまったということです。わたくしはまたもや、これまでにもそうだったように、怒りに自我を抑制できず、同じ過ちを犯してしまったのでした。なぜ自分の内から生まれる感情をコントロールすることができないのか。わたくしはそれがただただショックで、悲しいのです。 |
2014/10/28 (火) 23:21 公開 2014/10/28 (火) 23:29 編集 |
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ドストエフスキーの独白か、町田康の漫談か、文体は明らかに聞き手を想定しながらの講談口調であるものの、単文ごとの繋がりがやや途切れがちで正直に言えば耳障りがあまりよろしくない。
この主人公、卑屈で女々しくあるのは魅力のひとつであること間違いないが、けれどこの文章全体のほぼ全てが状況説明しかしておらずこれだけ弱く、揺れ動きやすい主人公であるのに、その感情が揺れ動くのは最終版に少しだけ、「良心」について触れる一瞬のみとなっている。
もっとこの主人公は卑屈になっていいし、暴れていい。
その抑制がきかなくなるほどに文章を書き殴っていい。
そのためには、作者はむしろ筆よりも耳を鍛えるべきではないか?
この作風であればより自らの文章に酩酊することが望ましいと感じる。