花と月子 |
月子祭り参加作品 |
嘴の黄色い小さな白い風見鶏のおもちゃはちょうど南の方角を向いている。風見鶏の下には矢印の先に飾られたゴシック体の黒いNの文字があり、もう一方の先にもやはり同じくアルファベットのSの文字板が飾りつけられている。風見鶏は黒味がかった色の細い木製の支柱に支えられ、地上約二メートルばかりの虚空に位置している。その支柱が大地と接している袂の傍で一匹の小さな犬がボールと戯れている。地面には程良く刈り込まれた緑鮮やかな芝生が敷きつめられていて、その上で子犬は気持ち良さそうに自分と同じ大きさ程のピンク色のゴムボールに両の前脚をかけ、じゃれあっている。 その犬はトイプードルのように見える。全身は茶色の巻き毛に覆われていて、両耳は垂れ、その巻き毛の隙間から黒いまん丸の瞳をのぞかせている。丸い尻尾は躍っているようにも見える。もしかしたらビションフリーゼか、或いはボロニーズという犬種なのかも知れないが、明確な判断はつかない。 そこからやや離れた位置、右奥のほうに小さな白い箱のようなものが見える。おそらく百葉箱だろう、陽の当たるよろい戸のある面は刳り貫かれたように真っ白で、反対に陽の当たらない面は灰色にくすんでいる。 それは夏の情景だ。 背後に広がる空はスカイブルーというよりはセルリアンブルーのような色をしていて、そして巨大な入道雲の姿があった。太陽の姿はなかったが、陽差しが強いことはわかる。代わりに左上空に小さく白昼の満月が浮かんでいた。その表面に二つ、三つクレーターがある様子もこちらからはうかがえた。 袖リボンの白いブラウスを着てサックスブルーのフレアスカートを穿いた痩身の女性が右手を中空に伸ばしたままの姿で、中央に位置している。その右手には水飛沫がキラキラと輝く崩れた放物線を空中に描く水流を放出している水色のホースの口が握られている。ホースは身体の向こう側へと見えなくなり、左下方から現れると芝生の上でとぐろを巻き、その先は地面を這う蛇のように長く伸びて左の端へと消えている。 おそらくこの場面の主役であろう中央に位置する若い女性、この女性は白くて柔らかそうな素材の大きなつば広のハットをかぶっている。横を向いているためあいにくこちらから目元は見えないが、ツンと高い鼻と白く透き通った肌、首筋の両側を通ってハットの外へと伸びて風になびいている長い黒髪などから、とても美しい女性であることがわかる。彼女が佇んでいるのはどこかの庭園か、或いはやや広い民家の庭だろうか。彼女をとりまくように奥には一面の花が咲いている。ひまわりが咲き乱れ、ゼラニウムの花があり、アリストメリアの花らしきものも見え、更にその奥には松の樹が数本見える。花々と緑のおりなすコントラストが美しい。ひまわりの黄色、ゼラニウムのオレンジ、そして無数のアリストメリアのピンクなどが目に眩しかったが、そんななかでもやはりいっそう目を惹くのは真ん中にいる女性の姿である。 それは一枚の絵画である。その画のタイトルは『花と月子』。 きっと主役たる女性の名前が月子なのだろう。 私はその画から目を離し、顔を上げた。いくぶんクーラーの効き過ぎた冷えびえとした小さな画廊のなかには数枚の画が飾られていたが、観覧者の姿は私の他に誰の姿もなかった。作者の名前を見たが、あいにく私の知らぬ名で、おそらく無名の若手画家が描いたものなのだろう。 私は受付の女性に向かって軽く会釈をし、その画廊をあとにした。外に出るとギラギラとした夏の陽光が私を迎えた。人の多い通りにはむんむんとする陽に熱っせられた空気が行き場をなくして辺りに滞っていた。とたんに汗がふき出た。しかし私はそれでも気分が良かった。『花と月子』。月子という女性の美しい印象を私は生涯忘れることはないだろう。 どこか店に入って冷えたビールでも飲もう、私はそう思い、雑踏のなかを歩きだした。 |
2015/06/10 (水) 09:51 公開 |
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入れ子状に構成された内容はまさにアンチ・ロマンといえますね。
文章は丁寧な描写で視覚効果も高く、とても美的です。
「私」の視点をなぞるような動線を描いていてそこも面白い。
読んでいて山尾悠子を想起しました。