悪魔 |
オチツケ |
「ちょっと行ってくる」 「晩ご飯までには帰るのよ」 母親の声には答えず、青年は無言で家を出て、夕暮れの中を何か考えるように俯きがちで歩いていった。いつものため池の前までくると彼は傍のベンチに腰を下ろし、生気のないくすんだ双眸で薄緑色の池面をじっと眺めた。 青年は学生だったがもう何日も学校には行ってなかった。ただ毎日を家の中で無為に過ごし、外出といえば今のように人目に付かないような時間帯にふらっと散歩に出かけるくらいのものだった。漠然とした不安や焦燥にかき立てられるせいで、青年はいつも憂鬱だった。 昔の良い記憶や悪い記憶が次々に蘇っては、懐かしく思ったり、青年を苛立たせたりした。そしてそれらのどんな記憶もが最後には青年に今の有様を自覚させ(どうしてこんな風になったんだろう)こうとりとめもなく考えさせるのだった。そうやっていつもと同じように何一つ有意義な結論は生まれず、ただ徒に時間が過ぎていく。 「ああ、昔に戻れたらなあ……」 彼はほとんど夢見るように、それでいて戻れないはずがないと信じているかのように、もう何百と呟いた台詞を口にして、再び黙って水面を見つめるのだった。と、そのとき。ため池を覆う夜霧の向こうからざざあっと物音がして青年は顔を上げた。(なんだあれは……?)さざ波をたててこちらに進んできた小さな舟は、彼が呆然としている間に岸に着き、鍔の広い帽子を被った漁師のような格好をした男が彼の目の前に立ち上がった。 「こんばんは」 青年はぎょっとした。男のひどい嗄れ声と、帽子の下からのぞくその眼が、まるで節穴のように黒々と底抜けていたことに。 「若い方、どうやらお困りのようですね」 「なんだ、あんたは」 「私? 化け物でも悪魔でも好きなようにお呼びになってください。ところでまあ一つ、私になんなりと願い事を言ってみなさい。たちどころに叶えてあげますから」 化け物? 悪魔? いったいなにを言っているんだこいつは。こう訝っていた青年だったが、男の言葉に気を取られた。 「なんでも?」 「ええ、なんでも」 底の見えないその眼孔に見つめられると、不思議と男が言っていることは嘘ではないような気がしてきて、青年は我にもなく言葉を口に出していた。 「それじゃあ俺を十年前に戻してくれ」 こんなつまらない未来など夢にも思わず、溢れる希望に満ちていた頃を思い浮かべながら、嘲るような調子の中に微かな希望を込めて青年は言った。男はにやりと笑うと「おやすいご用で」としわくちゃの手を一振りする。途端に青年の足下がぐにゃりと歪み、深く地面の底に落ちていくような感覚に襲われる。 周りの騒がしさで目を開ける。顔を上げると小さな勉強机に突っ伏している自分に青年は気づいた。周りには懐かしい友達の姿。懐かしい小学校時代の風景が、今まさに青年の──否、少年の前の前に広がっていた。ため池も、悪魔もどこにもいない。しばらくの間、彼は愕然と周囲を見つめることしかできなかった。 それから再開された人生はまさに順風満帆というにふさわしかった。 彼に不安を呼び起こさせるものなどもうなにもない。ただひとつ、あの男のことをのぞいては――。 「こんばんは」 ある晩、机に向かって勉強していると不意にすぐ近くから聞き覚えのある声が聞こえて青年はぎょっとして振り返った。部屋の戸口の前に悪魔が立っていて、その真っ黒な穴のような眼で青年を見ていた。 「この一月なかなかいい案配のようですね」 (魂をもらいに来たんだ!) 恐怖で声も出ず蒼白になる青年の顔を見て悪魔はにやりと口元を歪めた。 「安心してください、もらうにはもらいますがあなたの魂じゃありませんよ」 「なんだって?」 「あなたが捨ててきた未来の"あなた"の魂をもらうんですよ。今のあなたにはなんの関係もありません」 青年はびっくりして悪魔の言ったことを心の中で繰り返し反芻した。俺にはなんの危害もないだって? 話があまりにうますぎる気がしてどこかに罠がないかと青年は訝った。 「十年後も?」と青年はあの色褪せた過去(未来)を思って訊ねた。 「十年後だろうと二十年後だろうとあなたは生き続けることができますよ」 (ということは俺は本当に生まれ変わったんだ)青年は思った。(なんの代償もなしに。魂をとられるのは俺じゃなくて、あのどうせつまらない未来しか残ってない"俺"なんだから) 青年は喜びかけて、ふとあることを思い立った。 「じゃあ、あの"俺"は死ぬのか?」 「まあそういうことになります」 青年はそれについては特になにも思わなかった。どうせ死のうとしていたんだから。けれど青年は別のこと──自分の親や友達の顔が不意に頭の中をよぎって、そのことを考えた。それはあの頃には考えられなかったこと、今こうして毎日を満足に過ごしているからこそ思われることだった。 家族は、友達は、どう思うだろうか──? 突如として青年の心にそんな思いが落ちた。 家ではなにをしてもしなくても彼のために夕飯が用意され、学校に行くと友人によって陰鬱な気分が少しは紛れた。 青年にはもうそれしかないと思われたのに、彼らの誰一人、青年が死ぬということを考えもしていなかったのではないかと思うと、なにか不思議な感じがした。 (人生をやり直す代わりにあの人たちの思いを裏切る権利が、悲しませてもいいという理由が俺にはあるのだろうか) 悪魔はなかなか諾と言わない青年に次第に苛立ち始めたようだった。 「もういいでしょう。ええ? どうせ死のうとしてた自分のことなんて。なにを迷う必要があるんですか」 (そうだ、俺は何を迷ってたんだ。悩んだり、迷ったり、そういうのは全部見せかけだ。こいつも(悪魔の方を見ながら)やっぱり見せかけにすぎない。今さらそんなことに気づくなんてやはり俺は大馬鹿者だ) 青年は悪魔の眼を見つめながらきっぱりと言った。 「あなたの提案は受け入れられない」 「そうですか」悪魔はいらいらしながら早口に言った。「まあどっちにしろ同じことですがね。あなたのをもらうだけですよ」 刹那、悪魔は青年の首根っこを掴むと、藁でも投げるようにパッと窓の外に投げ捨てた。からだが空を裂いて固い地面が迫るのを、青年は静かに感じる。不思議と心は穏やかだった。そうしてぐしゃりと何かが潰れる音がして青年は死んだ。夕闇の空に遠くから悲鳴がこだまする。きっと十年後の未来でも同じ悲鳴が聞こえたに違いない。青年は安らかに笑いながら、もし生まれ変わることができたらそのときはちゃんと生きようと誓ったのだった。 |
2015/07/16 (木) 06:18 公開 |
■ 作者<rVziwsQV> からのメッセージ 作者からのメッセージはありません。 |
この作品の著作権は作者にあります。無断転載は著作権法の違反となるのでお止め下さい。 |
2の感想にある通り、いわゆるショートショート、星新一的なSFではあるのだけれど、端々にふっと浮かび上がる主人公の気持ちの“波”が、読み手の――少なくとも私の――感情を揺さぶるものがあった。
2作(『室伏君』)続けて読んだが、読み終えて、「あぁ、ちゃんと書こうとしているのだな、そういう人もいるのだな、嬉しいな、頑張ろう」、そう思えたことは良かった。
確かに描写は淡泊であるという意見もでるとは思う。
納得もできる。
ただ個人的にはその淡泊さはこの書き手の誠実さ(大事なことだけ書こう、大事なこと以外は削ろうという気持ち)の表れであると私は思う。
また二作続けて、学校という空間“への義務感”と、“からの逃避願望”とが語り手の中で切実な葛藤となっていることが感じ取れた。
そしてその葛藤自体が、――短いとはいえ――ひとつの切実な物語となっている。
そのこと自体に、私自身は強いシンパシーを覚える、感じ入るものがある。
と、ここまでは作者自身への一種の共感の表明。
次に一定レベルにあるだろうこそ、作品自体について少しだけ書こうと思う。
まず、筋立てについて。
希死願望のある男が死を目前に悪魔と出会い、生の大切さに想いを馳せるというこの筋立て自体はまぁありがちであると言えばありがちである。
「ありがちだな」と言って終わらせられる可能性がある点は、自分なりに考えておいた方が良いように思う。
個人的には、“『過去となった未来』とは人にとってどんな意味があるのか?”というこの作品独特の手触りこそは、深く掘る価値があるのではないか、と思ったりもする。
次に、『双眸』など、いくつか――感覚的な指摘で申し訳ないが――日常的でない単語が使われている。
両目ではダメなのだろうか?
特別な意図や想いがあるのだろうか?
ここで言いたいのは、『“かっこ良く見えそうな単語”わざわざ使って読者に負荷をかける位なら、日常的な単語に置き換えて読者をさっと物語に引きずり込んだ方が良い』ということだ。
もちろん、「この単語でないとダメ」、という場合もあるし、そういった単語を積み重ねることで、日常から少しずつ物語を切り離すという作風はいくらでもある。
けれど私の読む限りでは、この作者の持ち味は「日常的な言葉を積み重ねた先の切実さ」にあるように感じる。
なので、もったいないかな、と感じた。
作者の特質に合わない言葉のチョイスであると感じた。
いずれにせよ、この作品に(も)ある、作者の行く当てのない、そして他罰的でない哀しみのようなものは、私は好きだ。