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夏の逃避行
秋月 周
第一章
 藍浦秀歌は、華奢な体型をしている企業勤めの女だ。約十年前に大学を卒業し、電気関連の大企業に就職している。技術部門、エンジニアだった。ホワイトな職場環境に恵まれ、対人関係も良好な日々を過ごしていた。
 身長は百六十そこそこ。端麗な顔つきに加え、童顔であり、肌の張りは十代レベル、胸は大体Eカップ。それ故に男性からの人気が非常に高い。齢三十超えであることと、藍浦に意中の相手がいることを除けば、藍浦はたちまち男性からプロポーズされていただろう。また普段は慎重で真面目な性格をしている藍浦は、トラブルには巻き込まれにくかった。藍浦自身がそれを意図的に避けているからだ。
ところがどのようなものにも、所謂“エラー”が存在する。それは行為や概念、思考、はたまたこの世の中。それら全てが該当する。今日の藍浦も、そのエラーの一つであった。
 超巨大案件の成功を祝した飲み会の帰り、藍浦はへべれけに酔い、部下の肩を借りて帰宅していた。へべれけ、と一言に表しても、実のところ、大声を上げたり暴力を振るったりというような失態は犯さなかった。むしろ無口になり、いつも周囲に振りまく僅かな笑顔すら完全に消失させるほどだ。飲み会の後、というより飲み過ぎた日には大抵そうだが、今日は特に、その性質が現れていた。
 ただ、今回ばかりはその飲み会が災いした。藍浦は内なる“それ”を上手く発散できていなかった。忙しかった。兎に角業務が大詰めだった。他企業との交渉を成立させるため、藍浦は会社史上、最高のものを設計しなくてはならなかった。超巨大案件とはそれのことである。
 自らを慰める時間も、余裕も、無に等しかった。会社で寝泊まりすることが常態化していたし、仕事中に取れる休憩も昼食を除き実質三十分程度。死に物狂いで働いていたからこそ、今日の飲み会で盛大に飲んだくれた。
 肩を貸していたのは、篠塚弓弦という男だった。藍浦よりも五つ下である。
 篠塚は、藍浦が住む一軒家のドアの前で、「先輩、着きましたよ」と声を掛ける。藍浦は聞こえているのか、はたまたそうでないのか。よく分からない鈍い反応を示した後、数秒黙りこくり、鍵を取り出した。篠塚はホッと胸を撫で下ろした。篠塚は平静を装っていたが、その実、藍浦の魅力の虜になってしまいそうだったからだ。平たく表すなら、篠塚の理性は崩壊しかけていた、という訳だ。
「んー…弓弦君、ありがとう。よかったらうちにあがってかない?」
ドアを開けた藍浦が、手をひらひらさせながら言う。壁に右腕の肘を使ってもたれかかり、左手で誘惑している。「君のお仕事の愚痴をおねえさんが聞いてあげよう」
霧がかかり、一足す一の簡単な計算もままならない思考回路で、藍浦が導き出した親切と社交辞令の最適解はこれだった。これが、本当に社交辞令で済めば、何も起こらないはずだった。
「えぇっ?!い、いや、大丈夫ですよ、先輩。自分も楽しくお仕事させてもらってるので…」
篠塚が驚きを隠せずに言う。なんと言っても藍浦が酔って、篠塚の前で言葉を発するのはこれが初めてであったからだ。
首筋を優しく撫でるような甘い言葉に、危うく惑わされるところだった。それに、普段は名字に君付けをする藍浦が、自身のことを“弓弦君”と呼ぶのは、異常と言っても差し支えないのだ。
篠塚の胸に、仄かな後悔が胸に残留する。誰から見ても藍浦は非常に魅力的な容姿をしているし、本能に任せて飛びかかっても良いとさえ考えた程だからだ。
「…い、いつもそんなこと言ってるんですか?」
藍浦が唸る。
「まさか。私は今日気分が良いのよ。土曜日の深夜過ぎに、男を家に誘うくらいね。ねぇ、弓弦君」
先に理性が飛んだのは、意外なことに藍浦の方だった。酒をめちゃくちゃに煽ったせいで、自らを押さえ込むことができなかった。社交辞令では済ませなかった。意中の相手のことなど、頭の片隅にもなかった。感じられるのは、記憶していられるのは、内にある秘匿の欲だけだった
「おいでよ、おねえさんが優しく“して”あげる」
 勿論、一人でも“それ”は発散できる。けれど、“二人”の方が圧倒的に効率的であるし、お互いの合意もある。なにより、魅力的な女性だ、別に良いか。篠塚はそう思ってしまった。
無言で藍浦の背中と膝裏に腕を持って行き、身体を持ち上げる。お姫様抱っこと呼ばれる体勢だ。篠塚は勢い良く家に入り、足を器用に使ってドアを閉め、僅かな可動域の手首を最大限動かし、鍵を閉める。
「おわっ、弓弦君、案外力あるね」
艶やかな声が鼓膜を揺らす。甘い匂いが脳を支配する。既に篠塚ははち切れそうだった。僅かに残った判断力を使い、もう一枚のドアも開けて、藍浦の身体をベッドに持って行く。
「それじゃ、しよっか」
 藍浦秀歌は重力を感じている。より正確に表すとすれば、それは重力ではなく物体の質量だ。質量の正体を探ろうと目を開けると、それは明瞭だった。
藍浦は困惑した。なぜ、部下である篠塚弓弦の高い体温を、これほど間近で感じているのか。なぜ、自身は篠塚と交わっているのか。なぜ、力が一つも入らないのか。
 藍浦は初めに困惑したが、後に計り知れない恐怖に襲われた。自分と篠塚は“して”いる。どういう経緯でこうなったかは知らないが、確実に“して”いる。
 辛うじて羽織っているものの、背広服のボタンは千切れ、パンツスーツは床に放り出され、ブラを完全に外すこともなく、胸と局部のみが雑にさらけ出されていた。反対に、篠塚は全裸であった。
「篠塚君!やめて!」
声を張り上げるが、篠塚の耳には届いていないようだ。藍浦は焦る。ひたすらに声をかけるが、どうにも反応がない。
「篠塚君っ、やめ」
言いかけたとき、目があった。あぁ良かった、と藍浦は安堵する。職場での篠塚は実に紳士的であったし、他人のことを第一に優先する性格だったからだ。
「先輩…」
浅い呼吸の後、篠塚が言う。
「もう、遅いです」
藍浦は絶望した。おそらく酔った勢いでしでかしたのであろうことが、容易に想像できた。力が入らないのはアルコール、篠塚の体温が高いのもアルコール。朧気であるが、飲み会の様子も想起できた。藍浦は次の光景を目の当たりにして、さらなる絶望と恐怖を感じ、同時に冷静な判断も吹き飛んだ。
 直接、繋がっていた。篠塚は避妊具を装着していなかった。その事実を目撃し、理解するまでに、藍浦は数秒の時を要した。しかし理解の後に行動へと移すのは早かった。
 無我夢中で叫び、力の抜けた拳で篠塚を殴りつける。篠塚もかなり酔いが回っているのか、四苦八苦したものの、藍浦は拘束から逃れられた。
 篠塚の眼は人間のそれではなかった。獣そのものだった。
「先輩っ!どうして!先輩から誘ってきたのに!」
篠塚が叫ぶ。
 藍浦は更に窮地に追い込まれていることを実感し、底抜けの恐怖を感じた。もしも次、篠塚に手を掴まれたら、為す術無く、されたい放題になるであろうことを確信しからだ。
 互いに正気を失っていた。藍浦は自分の真横に防犯用催涙スプレーがあることを忘れていたし、篠塚も目の前の“雌”の身体にしか目がいっていなかったからだ。気づけば、藍浦はキッチンに向かって走っていた。自衛の手段として“それ”を選択したからだ。リビングから漏れ出る光に、キラリと反射する、圧倒的な力を持つそれは、篠塚の身体を貫いた。
 動かなくなるまで続けた。力が上手く入らなかったからだ。一突きごとに、身体が跳ね上がる。藍浦は何も考えないようにしていた。ひたすらに突き刺し続けた。
 篠塚は腰を振り、欲を満たそうと必死になる。自身の死を悟ったからこそ、そのような行動に走ったのだろう。実際はどうだったか、今では誰も知る由がないが、藍浦はそう感じた。篠塚の狂気に、藍浦自身も飲み込まれそうになった。
 
 七月八日、深夜一時過ぎ、土曜日。藍浦秀歌の家で、篠塚弓弦は死に至った。

2023/03/02 (木) 20:27 公開
2023/03/02 (木) 20:35 編集
■ 作者<lGeneTwE> からのメッセージ
小説を書こうと思っているのですが、どうにも自信が沸かなくて...他の方に冒頭だけでも評価していただければと思い、投稿いたしました。人の興味を惹くような文で、満足していただけるような出来映えであれば幸いです。
私の家庭は裕福ではなく、少しでも学費の足しになればと、別サイトのコンクールに応募する予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。
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感想・批評
隠れメンヘラ女が読んで抱いて我に返って突き刺したってんではどうにも……まあこわいにはこわいけども。
1:  普通 4点 <OciWw/8t>  2023/04/15 (土) 19:01
ひやとい
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