オレンジ |
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ぷぅぎゃああああああ |
酸味が漂う薄暗い路地を縫って店の前に立った。俺を見下ろすネオンが不機嫌な音を漏らしている。 今日もバイト帰りにパチンコ屋に足を運んだ。 看板に作られたネオンの星の部分は壊れていて黒ずんで見えた。勝負を始める前から黒星を予言するかのようだった。 夜の寒さを思い出し、身体が震える。俺は背を丸めて店の中に入っていった。 店内の空気は生暖かくてどこか湿っぽい。安っぽい芳香剤の臭いでクシャミが出そうになった。公衆便所よりは品の良いスーパーのトイレを頭に浮かべた。 ブルゾンから取り出した携帯電話は午後八時三十六分を告げる。店内はさほど広くないが、ほとんどが空き台なので見て回るのは面倒だった。それに釘の具合は容易に想像がつく。 俺は入り口に一番近い台に座った。 早い当たりを望めるが出玉は少ない。数を重ねて儲けるタイプの台であった。そんな定番のパチンコ台は中央の液晶部分が劣化して水彩画のように淡く滲んでいた。盤面は何回も玉が通過したせいで色落ちが激しい。ハンドルを回すとバネの力強い振動が手のひらに伝わって現役であることをアピールした。 まずは千円で試し打ち。釘は見た目を裏切らず、ことごとく玉の行く手を阻んだ。弾かれて惑った末に台へと飲みこまれていった。途切れがちに三桁の数字を回して、何事もなく止まる。リーチの場面を目にしないうちに玉は尽きた。千円で十二しか回せなかった。 俺は無言で隣の席に移動した。座ってすぐにハンドルの近くに目がいった。プラスチックの枠の部分に煤けた窪みが出来ていた。火の点いた煙草を押し当てたような跡は、ざっと見ても二桁に及んだ。甘い誘惑に乗った者達の哀れな末路を見た気がした。 転々と席を移って中程で落ち着いた。 普通の店では、ややマイナスの釘調整に相当する。最初の千円で二十回を記録した。三千円に一回程度で大台に乗った。ここでは最高クラスの優良台だった。 「……マジかよ」 携帯電話は残り時間の少なさを訴える。物寂しげな閉店を告げる蛍の光が流れるまで一時間を切った。 しかし、当たりが引けない。台の上部に目をやれば回数は三百に届いていた。現金で二万近くを失った。時間の関係で回収は絶望的であった。 そんな時に曲が耳に入った。歌っている人物は知らないが「人間失格」という曲名は覚えていた。口のうるさい母親のように問いかけてくる歌詞が神経に障る。その中、最後のワンフレーズは胸に沁みた。心情に重なる部分がある。愛している台に冷たくされて泣きたい気分になった。 「え、おおおおっと」 全く期待が持てないリーチでいきなり当たった。確変図柄に驚いて尻が浮いた。実際に浮くとは思いもしなかった。パチスロ関連の雑誌で当然のように使われる表現を自ら体感した。連続で四回の当たりを引いて控え目な一箱を確保した。店の換金率を考えれば未だに赤字から抜け出せていない。 俺は台の上部にある呼び出しボタンを押した。若い茶髪の男性店員が足早にやってきた。 「終了ですか?」 店員は不思議そうな顔で両手をクロスさせた。それに対して俺は黙って頷いた。 程なく店の中央に設置されたジェットカウンターに移動。集計の結果は予想通り、二千に届かなかった。 「余り玉はどうしますか」 「全部、交換で」 俺は端数を含んだレシートを店員から受け取った。 ここからが俺にとっての本番だ。 意識して呼吸をした。空気は不味いが気持ちは安らいだ。俺は不自然に見えない速さで奥に向かって歩き始めた。 カウンターには彼女が一人で立っていた。もう一人のあばた面の女は景品の仕分けをしているようだ。邪魔にはならないだろう。 俺は彼女の前に立って、そっとレシートを差し出した。 「ありがとうございます」 彼女は笑顔で迎えてくれた。薄い唇が綻んで白梅を思わせる八重歯が覗いた。清楚なイメージを壊さないナチュラルメイクは俺の好みでもある。 有能な彼女は手際が良い。文鎮を操る手はピアニストに似て精緻な動きを見せた。一括りにされた文鎮は瞬く間に俺の手の中に収まった。悲しい瞬間が訪れようとしていた。 「余り玉がありますので、こちらからお好きな物を選んでください」 別れの宣告を明るく切り出され、俺は目を瞬いた。用意していた言葉を頭の中で反芻した。 「最近になって風邪を引いてね。ちゃんと医者に処方された薬を飲んでいるのだが、どうにも喉の調子が良くない。なにか、それに効くような物ってあるかな」 「それでしたら、こちらのアメがいいと思います」 彼女は右手を伸ばして応じた。握手を求めるような白い手に頭がぐらつく。思わず両手で握ってしまいそうになった。 「あ、これだね。そう、か。なるほどね」 各種ある飴玉に無理矢理に目を向ける。 「マジだりぃ」 小声ではあるがはっきりと内容を聞き取れた。 俺は顔を傾けて背後を窺う。逆立った髪の青年が頭を小刻みに動かしていた。眉尻に嵌めた銀色のピアスが刃物と同様の光を放った。 適当に飴玉を摘まんで俺はカウンターから離れた。開店休業状態のパチンコ屋で後ろに並ばれるとは思ってもいなかった。今日は厄日かもしれない。 換金所に続くドアを目前にして俺は急に催した。四千五百円分の文鎮と飴玉を懐に入れてトイレに立ち寄った。 中は店舗よりもきつい芳香剤の臭いが充満していた。便器の手前のタイルは短小を仄めかすかのように濡れていた。見た目が軽微な奥で俺は用を足し、洗面台を素通りして店内に戻った。 もう一度、彼女の姿を目にしておくか。 店内に流れる静かなピアノ曲が、その気にさせたのかもしれない。彼女はカウンターにいた。もう一人の女と向き合って話をしているようだった。 俺は素早く近づいてカウンターの死角になる位置にしゃがんだ。スニーカーの紐を直す仕草で耳を澄ました。 「さっきのヤツ、いつもいるよねぇ。もしかしてアンタに気があるんじゃないの」 あばた面が余計なことを口走った。しかし、心中では即座に否定した。労せずして彼女の心の声を聞ける機会に胸が高鳴る。 「やめてよ。気にしてんだから。服のセンスがあり得ないでしょ。四千円で換金ってどんだけ貧乏なんだよ、おまえはって感じだし。四十代のおっさんに興味なんかないって」 そこに俺の女神はいなかった。あばた面と性悪女がいるだけだった。 「顔は可愛いのに酷いよねぇ、アンタは。それにあのおっさんは三十代くらいでしょ」 あばた面の言葉はフォローになっていなかった。俺は二十代後半だ。 「ま、あんなキモオタの話なんかどうでもいいよ」 「いい加減にしろ!」 垂直に跳ぶ勢いで立ち上がり、俺は全身を震わせた。二人は驚いた顔をして、すぐに視線を逸らした。 「てめえのような肉便器のビッチは便所臭い店で一生働いとけ」 俺は文鎮と飴玉を床に投げ付けた。カウンターで短い悲鳴が上がった。騒動に気付いた様子の店員がこちらに近づいてくる。 正面に逃げ道はない。踵を返した俺は猛然と走った。店舗の横手のドアから外に飛び出した。 暗がりの歪な通路を全力で駆ける。目に留まったポリバケツは片っ端から蹴り倒した。追っ手を巻く常套手段で、やらないよりはマシな時間稼ぎであった。 本当に追われていたかは分からない。後ろを振り返る余裕はなかった。かなりの遠回りを強いられ、今は自宅のアパートの途中にある、ひっそりとした商店街の通りを歩いていた。 シャッターの閉まった酒屋の前に自販機を見つけた。喉の渇きを覚えて近づくと全ての品に売り切れのランプが点いていた。午後十一時を回っていたのだった。 仕方なく隣の自販機でオレンジジュースを買った。一息で半分近くを飲んだ。ビールを飲んだ時と同じで大きく息を吐いた。久しぶりに飲んだジュースは懐かしさも加味されて美味く感じた。 心地よい疲労感に包まれた。パチンコ屋のカウンターにいた女のことが脳裏に過る。垢抜けないあばた面は贔屓目に見ても可愛らしくはない。意外と包容力はありそうだ。胸の大きな膨らみが、そう思わせるのかもしれない。 「恋人としては、ちょっとな」 俺は残りのジュースを飲み干し、空き缶を速やかにゴミ箱に投げ捨てた。 口中には甘酸っぱい味が残っている。不意にオレンジの表面のブツブツが、あばた面と重なった。 妙な気分になった俺は鼻で笑うと、思い入れのある曲を口ずさみながら家路に就いた。 |
2013/12/10 (火) 06:10 公開 |
作者メッセージ
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