原風景 |
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ひやとい: バイト先をクビになった男の話 |
「俺、なんかあと一ヶ月で辞めろだってさあ」 同じくらいの歳でよく話をしていた、ジージャンがトレードマークの原田という男がそう切り出してきた。仕事中だった。 「なんかこれから、いいバイトないっすかねえ」 仕事は、全国の書店やコンビニに、主に週刊誌や月刊誌などの雑誌類を発送する仕事の、その一工程を担当している。 ベルトコンベアに乗った一枚一枚の、画板をひとまわり小さくしたくらいの板に、各店ごとの伝票が、板の左上に付けられている伝票を挟むための、多少横長のゴム板のようなものに挟まれている。 その伝票に書かれた<<イ 週刊○× 3 ロ 月刊△□ 3>>の通りに、それぞれ<<イ>>担当、<<ロ>>担当の者がおのおの任された雑誌を、数字の分だけ冊数を置いていく。 伝票どおりに置き終われば次の伝票どおりにまた指示通り置いていく。板は自動で動くが、手が届くようなら自分のところまで、次に本を置く板をコンベア上でスライドさせて、また同じ事をする。 伝票にあるすべての本が置き終われば、最後の本を担当する者が、すぐ近くにある別のコンベアのラインに本のかたまりを、伝票を挟んでから移動させ、その先にある梱包機に送る。梱包機から吐き出される、ラップに包まれた雑誌類は、全国の書店やコンビニに発送され、いずれ誰かに読まれることになるのだ。 ここで働く者たちは、雑談で時間が経たない苦しさをごまかしながら金のために暇をつぶしている。ベテランになればいくつもの雑誌を担当しなければいけないので時に大変忙しくなるのだが、忙しければ忙しいなりにヨタ話なんかをして楽しくやっていたりした。 「なんで、急にそんなこというのかねえ」 「いやあ残業しねえからだってさ」 「おかしいねえ、強制でそんなことさせられるわけないし、クビにだって出来ないはずなんだけど」 「会社がそういうんだからしょうがないよ」 コンベアからはそれなりに音が出て、多少は話をしても周りに迷惑はかからなかった。稼動熱のせいかいくぶん熱気がコンベアから来ているような気がする。熱気と騒音で出来たトンネルに会話を通すような感じが、誰かと話をするたびにする。 「なんで? ゴネてみたらいいじゃん金取れるかもよ」 そう言ってみたが、原田は下を向いて苦笑し、首を横に振るだけだった。 なんだろな、と素直に思った。 雑誌の発送という仕事は、期日の関係で時間との戦いという部分が多いせいか、気の荒い、というか短い人が多かった。男よりは女の人の方が特にそうだった。左ひざを痛めて辞めざるを得なかったが、かっては土方で日給1万2千円をもらっていた身のせいか、汗をかきながら本の重い束の紐を、プラスティック製の青い安全カッターでひっかけて持ち上げながら切り、手早く正確に本を置き続けて一日7千円程度にしかならないような仕事に、なぜいちいち怒りながらやらなければならないのかが、よくわからなかった。 確かにある程度はそれなりにまじめにやらなければならないというのが仕事だとは思うのだけど、コンベアを、コメカミに血管を浮き立たせながら目を剥いてにらみつけ、本をまるで目の敵のように板に叩きつけているのを見ていると、気持ちのどこかから、生命力が細い管を通って少しずつ抜けていくように思えた。そんな空気が流れる現場を、原田もバカバカしく思っていたのだろう、 「残業なんて、やってられませんよ」 なんて、よく言っていたものだった。しかしそんな事を思ったところで、急にそういう人たちがにこやかになるわけでもないから、半ばあきらめて仕事を続けるほかはなかった。 結局深田は一ヵ月後に消えていった。 最後の日には別れのあいさつもそこそこに、静かに、いつものように帰って行った。争いごとはいやだったのだろう。ゴネたりとか、そういう話は一切聞かなかった。 こんなバブルがはじけてまだ数年と経ってない不況──今ほどではないけれど──のさなかで、あてもないまま仕事を探さなければならない原田の身を少しだけ案じた。 と同時に、原田はリーチフォークの資格を持ちながらも、ここでけっこう長いキャリアを積んできていたので、それを利用して少しくらい暴れ、取れるものくらい取っておけばいいのではないかとも思った。半年以上の勤務であればバイトであっても雇用保険の受給資格は得られるのだから、原田もやろうと思えばそのくらいはできたはずだった。もっとも、この職場に来るまで長いことそれを知らなかった者がえらそうに言える立場でもなかったし、おかげでずいぶん損をしてきたこともあったのだけど、それにしてもという思いは正直、感じざるを得なかった。他人事ながら、残念だった。 帰り道、一人で歩きながら原田の顔を思い出し、 「明日はわが身、か」 誰もが思うようなベタなことを、ぼんやりとうす暗い空に浮かべた。 それから何ヶ月が経ったか忘れてしまいそうになるころ、事務所に呼び出された。 所属先の会社は、発送業務を大手の書籍取次会社から請け負ってやっているという名目の、いわゆる偽装請負めいたことをやっているせいか、その書籍取次会社の工場の中に間借りした形で事務所が設置されている。 そうした工場はどこでも、たいてい、そういう感じだ。 だから、工場で働いている人たちの大半は、正確にはその下請けの会社、と言えば聞こえはいいが実態は単なる人材派遣会社、昔で言えば人夫出し屋、の所属だ。 関係上、取次から何か指示が天の声のようにやってくると、事務所の中ではちょっとした騒ぎになる。 呼び出された理由も、それだった。 要するに、今回のいけにえの対象に選ばれてしまった、ということだった。 というよりそれ以外に呼び出される理由など、単なる一人夫にはほぼありえない。仕事上のことなら、現場で済む話だ。 いよいよ来たか、と思った。 バブルのころの悪癖が残っていて、隔週一日は電話連絡を入れて休んでいた。 重い本を運び続ける現場仕事で週六日働くのは正直きつかったし、面接の時渡された規定でも、そうしたことは許されていて、それに甘えていたのだ。 しかし、その時の状況如何で、紙ぺら一枚にかかれている申し訳程度の規定など、事務所の人間の頭からは、都合よくきれいに吹っ飛ぶらしい。 事務所に入るなり、事務所の人事管理担当の男が言う。 「あのな、お前休み多いだろ」 事務所の中は書く気もしないほどベタな風景で、そういう場所特有の、天井に近づくほど黒いグラデーションが濃くなっていくような感じになっている。まだ分煙がやかましく言われていない頃だったので、ヤニで焼けたらしい白いクロス貼りの壁が、暗い磁場のかかった中で味を出していた。 「はあ、そうすかねえ」 「これ見てみろ、隔週で一日休んでいるだろ」 一応とぼけてはみたが、指差された先には出勤表があって、隔週に一日休んでいる証拠がいやおうなくきっちりと残っている。 「はあ、確かに……」 「だからさ、休みの多い人間には辞めて欲しいんだよ。あと一ヶ月で辞めてくれ」 わかってはいたが、目の前で言われるとやはりショックは大きかった。 「辞めてくれって、突然言われても……」 「休むからいけねえんじゃねえか」 「でも、面接の時に説明されたとおり規定通りに、休み収めてるじゃないすか」 「あのなあお前、いくら規定どおりっつっても、今みんなして忙しく働いているときに、お前みてえな真似されちゃ困るんだよ」 「電話連絡したら、休んでいいって言ってたじゃないすか。面接の時もそう言われたし、その時もらった紙にも書いてあるじゃないすか」 強い気持ちを持つようにして、ムダとわかりつつ、言い返してみる。 「屁理屈言ってんじゃあねえよ」 権藤と言う名前のその担当は、もう六十過ぎにもなるらしいという事なのに妙に元気な小柄の男だった。土気色の肌に酒に焼けたようなものが混じり合い、脂乗りしている。坊主頭より少しだけ長く刈られた髪の毛の底が、鈍くぼんやり光っているのも見え、長年の使用で洗濯してもくたびれが取れない作業着の中で、頸にかかった白いタオルだけが妙にこざっぱりしてまぶしい感じがした。 こういうタイプの男が、屁理屈云々、などと言う時はどんな時かは、もう決まっている。 話を、一刻も早く打ち切りたい。 それだけが頭の中で一杯になってるということだ。 「とにかくだ、辞めてもらう。わかったら、もう戻れ」 権藤はそれだけをいうと、自分の机に戻り事務仕事をはじめるような素振りを見せ、もうこっちを見ることはしなかった。 用事さえすませば、厄介には一切かかわろうとしない。経験を積んだ、実に年配者らしい態度だった。生きるためにはこうすべきなんだよ、というような見事さが実に腹立たしい。 握りこぶしを固め事務所から去ると、現場に戻るまでの間、何がしかを思い浮かべさせられる。早足で歩くためによって起こる風が、頭から湯気が出ているかのようなほてりを強く感じさせられて、ああ今確かに怒ってるな、とわかる。わかると同時に、顔のこわばり、手足をはじめとする体の緊張、目線など、すべてが怒りによって支配されているなと、感じられた。 現場に戻ると、悪いとは思いつつ罪もない雑誌たちに自然に怒りをぶつけた。誰かと話をする気も、すっかりとなくなっていた。 このままでは、絶対に終わらせない。 就業時間が終わるまで、一念が続いた。 工場から歩いて十分ほどで最寄駅だった。 仕事が終わるとすぐにそこまで歩き、とりあえず近くの本屋で労務関係の本のコーナーを探し、目当ての本を見つけ読み出した。 今頃、権藤は一杯やっているのだろう。 思うと、さまざまな妄想が、殺意とともに目の前の空に浮かぶ。 立場もあるから仕方がないことではあったが、事務所内で見せた、憐憫の情のひとかけらもない見事な立ち振る舞いを思い出すと、怒りは増幅され続けた。もともと気が長い方ではないので、そのせいで愚行を繰り返して損ばかりしてきた。そのことを踏まえて自制を心がけつつ、しかるべき対応とはどういうものか、まずは調べものにとりかかったというわけだった。 と同時に、生きるべく要領を身に備えることで、権藤とたいして変わらないような人間像に、必然として少なからず近づいてしまわざるを得ないだろうと思わされることがまた不愉快でたまらなかった。 いずれにしても、この怒りが消える要素が新たに加わるような気配は、しばらくは、どうもないようだった。 本は、とりあえずわかりやすそうなものから手に取った。 見開き二ページごとに、イラストを織り交ぜた形で内容がまとめられているという体裁の、ちょっと字が読めさえすれば、誰にでもわかるようなものだった。大きさも、いかにも手に取りやすいであろうB5版のものだ。 そういうもので大まかな内容を把握してから、細かい知識がまとめられている、法学部の学生が読むような専門的なものにとりかかれば、少なくとも致命的な抜けは防げるだろう。そういう考えで読んでいった。 本には、いかにも女性好みな、丸っぽい感じのイラストが添えられている。深刻な状況の中で、そういったなんともかわいらしいイラストの載っている本を読むのにはちょっとだけ違和感を感じたが、そんな事にとらわれる気も通り過ぎてしまうほど真剣に読んでいった。 この種の本の常で、内容理解の上で前提となる概略から書かれていくため、少しばかり読み進めても知りたい情報まではなかなか辿りつけなかったが、焦れったい思いをこらえつつ読み進める。 焦れったいからといって、要領よく目次を見て知りたい内容をピックアップして頭に入れただけで行動すると、たいていはそれ以外の知識に、思惑をひっくりかえされてしまうものだ。若くて世間知らずなころには、そんな痛い目にけっこうあっていた。もっとも、そのころより世間を知っているのかと問われると、まったく自信はない。 そんな焦れったさと、気が立っているのとで本の内容が頭に入りにくかったので一回本を手から離すと、立ち読みせずに買い、落ち着いたところで読めばいいんだということに気がついた。 貧乏な生まれ育ちなので、読書はもっぱら図書館と立ち読みで済ませてきたのだったが、今回は生活がかかっていることだし、さすがに金をかけなければいけないだろう。 本に多少の金を惜しんだところで、どうせパチンコやら酒やらに金を使ってしまうだけだ。 そう思い込ませ、まるで清水の舞台から飛び降りるような気持ちでレジに向かい、身を切られる思いで、長年使っていたためあちこちにほころびが目立つ、合成皮革で出来た二つ折りの財布から金を出し、本を買った。 たった一冊の本を買うくらいで、清水の舞台から飛び降りるような気持ちになるほどの小ささに、つい口元が緩む。 もっとも本は、日給の四分の一くらいの値段だった。 そのくらい、安くこき使われているのだと、あらためて思った。 思うと同時に、また怒りがぶり返し、みぞおちの辺りから熱がこみ上げてきた。 本屋から出ると、胸ポケットからショートピースと100円ライターを取り出し火をつけた。煙を吐き出し、少しだけ怒りを空中に持って行ってもらう。 そうしながら、近くの店でコーヒーでも飲みながら読むか家で読むかを少しだけ考え、本屋で金を使ってしまったことでもあるので、よけいな出費は避け、用心して家に帰ることにした。決めると目の前の線が揺らぐのを見ながら、しばらくぼうっとする。 タバコが半分ほどになったところでもみ消し、駅へ向かった。 やるべきことをある程度終えたので安心したのか、急に足、とくにふくらはぎあたりが重く感じる。毎日のことだというのに、立ち仕事というものに、一向に慣れる気配はなかった。 引きずりながら、高架になっている駅の改札に向かう。エスカレータがあるのが救いだった。 ホームに着くと電車を待つ。 沿線は、痴漢がよく出没することで有名な路線だ。 電車が待ってから数分で来ると、どうか今日も誤認されないようにと願いつつ乗り込んだ。 運よく席が空いているのを見つけたので座り、買って来た本をさっそく広げた。 乗り過ごさないよう耳に神経を傾けながら内容をむりやり目に入れる。 数駅乗るだけだから読まなくてもよかったが、他にやり過ごす方法はなかった。 進めていくと、見覚えのある言葉がみつかる。 第二十条(※) 使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少くとも三十日前にその予告をしなければならない。三十日前に予告をしない使用者は、三十日分以上の平均賃金を支払わなければならない。但し、天災事変その他やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となつた場合又は労働者の責に帰すべき事由に基いて解雇する場合においては、この限りでない。 ○2 前項の予告の日数は、一日について平均賃金を支払つた場合においては、その日数を短縮することができる。 ○3 前条第二項の規定は、第一項但書の場合にこれを準用する。 これのことだったのか。 そう言えば、原田の時も、そして今回もそうだった。 一ヶ月後に辞めろと。 確かにそう言った。 なるほど、これがあったからなのか。 得心すると、俄然、この部分だけの見開き二頁を食い入るように読んだ。読み逃しがないようにと、ゆっくり読む。自然、顔がこわばるのが感じられた。 何回目かの読み返しの際、ふと窓の外を見た。 すっかりと乗り過ごしていた。 これ以上乗り過ごさないよう、本を閉じて座席から離れ、ドアの前に立った。 ※ law.e-gov.go.jp/ 労働基準法第20条より 折り返した電車から降りると腹が減っていることに気づく。 そう言えば仕事が終わってからなにも食べていなかった。それだけアツくなっていたということだが、それほどまでに理不尽だと思えたのだ。 ふとポケットをまさぐると、仕事場のおばちゃんにもらった黒飴が入っていたので、なめながらスーパーで買い物をする。 あまりにも腹が減った状態で買い物をすると判断がおかしくなってつい買いすぎてしまう。その予防策として飴は最適だ。 これもいろいろな失敗をしながら身につけた知恵だ。 こんな細かい知恵は垢のようにたまり、そして人を縛る。縛られなければ、生きていけない。そのたび、砂を噛むような思いになる。 適当な食材を買うと家に向かう。帰ったら飯を食い、そして早く本が読みたい。自然早足になる。仕事のせいで足がきしむようだったが、無理に歩く。 十分ほど歩いてから家に着くと湯を沸かし、ポリ袋からカップ麺を、小さな折りたたみテーブルに出して用意する。 家といっても狭い四畳半で、台所も半畳ほどの広さしかないが気に入って住んでいる。もともと貧乏な家の出だから狭さなど気にならない。 湯を沸かしている間に服を脱ぎちらかし、寝巻きにしているスウェットに着替えタバコを着ける。そして本をテーブルの上に開いた。 また夢中になってなにかやらかすといけないので読むのは後回しにし、湯が沸くまで待つ。 会社帰りに吸ったというのに、タバコが妙にまわる。 カップ麺を食ってから一息つき、本格的に読み始める。 自然、灰皿が盛り上がり出すが気にせず進める。 正直、焦っていた。 電車で読んだあの基準法の通りだとすると、向こうに落ち度はたぶんない。 結局スゴスゴと辞めなければならない羽目になる。 いやだ。 何もせずに、何も出来ずに、辞めるのだけは、絶対に、絶対に、いやだ。 何としても、何か見つけなければ。 何か、何かないのか。 何か――。 祈るような気持ち。 ぴったりだった。 読書に慣れないので目が疲れはじめたが、そのたび、権藤の顔を思い浮かべ気を奮い立たせた。 やっと一通り目を通すと、部屋の空気はすっかり濁っていた。窓を開けた。 窓の上の時計を見ると、いつも寝る時間をとうに過ぎていた。 明日は、仕方ないかもな。 腹をくくった。 あれから寝坊の心配なく、朝早く起きる事が出来たが、あえて会社へは行かない事にした。これから戦うためには、入門書のようなものを一冊読んだだけでは、とても足りないと思ったからだ。 戦うといっても、会社に残りたい気持ちなどはすでになかった。居残ったところで、ただ居づらいだけだ。居残りに見合うほどの給料も、一回だってもらった覚えはない。 それよりも、今後いったい何が可能なのかを探し、そして仮に辞めるにしても、次の展開をも見据えて動けるような、そんな準備が必要だと思われてならなかったのだ。 自殺する予定など当面ないのだから、まず生き抜くこと。 それこそが大事だ。 会社に電話をかけるため、こまごまとした身支度をして気持ちを上げていきながら、外に出た。歯磨きや洗面のの行為ひとつひとつが、なにかの儀式のように思えた。 五万もする電話権など持っていないから、公衆電話からかけるしかなかった。ケータイなどまだ出始めで、貧乏人には高嶺の花だった。もっとも持っていたところで、かけてくる相手などはいなかったが。 アパートから数分歩くと公衆電話のある商店街が見える。とたん、心とは関係なく、いつもの日常的な風景だけがひろがる。その日常ぶりの明るさかげんに、急に圧迫感を覚えた。 気負い、もしくはこれから展開されるであろう戦いへの不安が、そう強く思わせるのだろう。 そんな理屈をむりやり頭に並べて弱気を押し切り、かぶりを振って目指す場所へ向かった。 電話は商店街に出てから右に曲がってすぐのたばこ屋の、カウンターのようなところに置いてあった。電話の前に立つと、カウンターの向こうでどこにでもいるミセスタバコ屋的な老婆が老人力で佇んでいた。タバコを買うので顔だけは知っていた。他は名前も素性も知りはしなかった。 タバコを買うのだと勘違いされないようカウンターからなるべく体をずらして受話器を上げ、硬貨を入れてボタンを押した。現場が忙しいのか発信音がしばらく続き、もう一回かけなおそうかというところで声が聞こえた。 「もしもし――」 声を聞きああ、事務のあの人だとわかる。とたん心が軽くなった。 もし権藤が出たらと思うと。 それだけが心配の種だった。権藤が出たら、朝の大事な時間を、出勤しろだけの押しで必ずつぶされ、しかもちょっとでも気を強く持てなければ言うままに流されて、そして無意味な一日が過ぎる。 今となっては、そんな時間がただもったいない。 どうせ今日休もうが休むまいが、クビは決定的なのだから、割り切って考えるべきだと思った。 欠勤の電話を無事終えると家に戻って朝食を食べ、時間を見計らって再度外へ出た。 図書館へ行くためだ。 さきほど行った商店街の、タバコ屋のあたりを通り過ぎて数分歩くと、普段会社で使うのとは違う、私鉄の最寄駅に着いた。 いつ買ったかすっかりわからなくなった、現場作業でかなり擦れてしまった黒のGーSHOCKを見ると九時に少しだけ足りなかった。 残念な事に、近所には気軽に歩いて通えるような図書館はなかった。 一駅ほど歩けば小さな図書室のようなものはあったが、調べ物にはどう考えても不向きだった。3駅ほど乗れば地域でいちばん大きなところがあるので、そっちに行くことにした。 当然人気があり、平日でもけっこう混んでいるところだ。にしても、早めに行けば調べ物をする程度には困らないだろう。 ふと、学生の長期休暇にあたらない時期だと気がついた。気持ちが軽くなり、タイミングのよさに少しだけ感謝をした。もっとも、こういう風にならないのが一番だとはわかってはいるが。 駅には二つ改札口があった。券売機に近い改札口は一つしかない。その改札口から見て踏み切りを挟んだ向こう側が、図書館がある駅方面のホームだった。 切符を買い踏切を越えて、直通の改札口を抜けるとホームに向かった。 他の私鉄に比べると地味な感じのする空気感が上京してきた頃から好きで、飯場をいろいろと巡るうち、この沿線に住みつくようになった。 ホームにはまだ通勤通学客がけっこういて、気持ち下を向いてじっと待っている人もいれば、楽しげに話し込んでいる学生のような客もいて、ゾーンが白線で区切られただけの、鉄製の細長い灰皿が置かれた喫煙所でもやに包まれている人もいた。 見たとたんタバコが吸いたくなり、自然と足がもやの発生場所へと向かった。歩きながらタバコとライターを探すためにあちこちポケットをまさぐって取り出すと左手に二つをまとめて持ち、到着と同時に火をつけた。 昨日の会社帰りの煙には怒りを持っていってもらったが、今日は天に希望を伝えてもらうために煙を昇らせた。 朝の澄んだ空気も一緒に味わおうと、少しだけ鼻で息を吸いながら深く煙を吸い込むと、朝の電話の用事などで緊張していた顔の筋肉が少しずつ緩んでいくのがわかった。吐き出した煙はすぐもやになり、やがて空気と一体になった。 作業を繰り返すうち、甲高い警笛が聞こえ、ほどなく電車が到着した。この駅は各駅電車しか止まらない。どこまで行くかあらかじめわかっていれば、よけいな気を使うことなくタバコで頭をぼんやりさせる事が出来た。 乗り込むと席はそれなりに埋まっていて、たまに櫛の歯が欠けたように空席があるだけだったが、どうせ3駅なので立っていることにした。またぼんやりして乗り過ごしてしまっても面倒なことだ。 たった三駅でも、待っている間は長く感じる。 普段暮らしているぶんには意識しないのだが、どうもせっかちなのか、こういうちょっとした間が忌々しく焦れったい。 おまけに忘れっぽいので、こういう時に便利な暇つぶしの本や道具も持ってこなかった。 いつもそれで後悔するのだが、忘れっぽいせいで、そういう時が過ぎてしまえばきれいさっぱり忘れて、またこういうことがあるときに困るというのをずっと繰り返している。もう少し忘れ物をしなければいいのにと思うのだが、まあ仕方ない。 仕方なく電車の外に目をやると見慣れた光景が映る。普段は会社に行くために別な路線を使っているのだが、今のバイトに就く前はこの路線でいろんなところに行ったものだったから、見慣れているのも当然なことだった。 そういう場所でこれまでやってきたことは今と大して変わらない。ようするに体はきつくてもそれなりにもらえる仕事か、体が楽だけどそれなりにしかもらえない仕事か――今やっている仕事がまさにそんな感じだ――のどちらかしかやってきてないということだ。勉強もスポーツも出来ない、かといって他に何かとりえのあるわけでもない男の行き着く先などはえてしてこういうものだろう。生きてきてからずっと、そうやって納得するようにしてきた。 外の流れを見ながら、ふと、いままでそうやって納得して生きてきたのに、どうしていま、こんなに怒っているのだろう。そんな疑問が浮かんだ。 どうしてだろう。どうして―― 少し考えたが、わからなかった。 ただ、昨日のことを思い出すと、怒りがよみがえるのも確かだった。 迷いが生じているのかもしれない。 罠だ。 確証はなかったが、体感でわかる。 時として、迷いは罠になる。 罠だとわからずに迷いに乗った時、その先には後悔だけが残るものだ。 そういう時は理屈でねじ伏せるに限る。 これから行動する事によってどんな利益があるかを思い出し考え、経文を暗証するように並べた。そして、今は迷うな、怒りを忘れるな、とも念じた。 ――今はとにかく、生きるために信じて、行動するしかないんだ、ないんだ、ないんだ―― しているうち、アナウンスが到着駅を告げた。降りると他の乗客はあまり降りてはこなかった。一息つき、ゆっくりと歩く。 島式ホームの、ぽっかりと開いた穴のような階段口を下に行ってから上り改札口を過ぎると図書館に向かった。 自然、ポケットのたばこに手が行く。 駅前すぐのロータリーを越えた時には、それはもう戻っていた。 図書館へ向かう道の途中に小学校がある。とっくに登校時間は終わっていた。 出来てからしばらく経つらしく、白く塗られたコンクリート製の校舎はどことなく薄汚れ、遠目からでもそれとわかるクラックが入っていた。 校舎からは子供たちのものらしい甲声が時折聞こえ、平和な日常が展開されている様子が伺えた。 その校舎のすぐそばにある校門を道沿いに通過するとすぐ、図書館に着いた。 区で一番の規模を誇るそこは、隣の小学校と同じように白い建物で、同時期に作られたのではないかと思われるほどに似通っていて、クラックの入り方までそっくりだった。 火のついたたばこを持ったままだったので、中に入る前に消そうかと一瞬思ったが、館の、元の躯体から少しそこだけ外へ出っ張った状態になっている入口をみると、その口の自動ドアと、すぐ奥にある館内へとつながる自動ドアとの間の横の方に、喫煙所があることに気づいたので、館内に入る前に少しそこで落ち着くことにした。 喫煙所の灰皿のそばにある木製の、背もたれの無いベンチに座り、とりあえず一口吸った。 外と中をつなぐ出っ張りの入り口はいくぶん広めに取られていて、喫煙所と反対側の方にあるスペースには区か都かのパンフレットがたくさん入った棚が置かれている。 それを何気なく見ながら煙を吐き出すと、気持ちぶん息が苦しかった。 ゆっくり歩いているように思っていてもどうやら早足だったらしい。それにつられるように気づくと、顔に湿り気も感じた。ポケットからタオルハンカチを出して汗を、軽くたたくようにぬぐう。 終わると、どうせなら缶コーヒーでも買ってくるかすればよかったかな、と思いつつ息を落ち着かせ、たばこを深く、深呼吸でもするみたいに吸い、少しだけ息を止めるとゆっくりと吐き出す。出した煙はすっかり薄まっていて、すぐ空気と一体化した。 火を消していくらかぼうっとすると、重くなりそうな腰をあげ、館内に入った。 一階は児童室と視聴覚室がメインになっているので用はない。二番目の自動ドアをを抜けたすぐ横にある階段で二階へ向かった。 踊り場を抜けて上がると、目的の図書室に着く。 室内は真ん中だけ広めに空間が取られていて人が行きかいやすいようになっているが、あとは本棚がぎっしりと並んでいた。 上がった階段のすぐそばにあるカウンターで目的の関係書籍の場所を訊きすぐ向かう。平日の午前中とあって、まだ人気は少なく、いても主婦と見える人や年月を働き終えた風な人、たまに学校にも行かずに日々を過ごしているような若者。そんな人たちがちらほらいるだけだった。 |
2013/12/10 (火) 09:37 公開 |
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