崖の上の僕 <文芸部祭り参加作品> |
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石助: 崖の上から海を眺める僕は、愛していた女性の事を思い出す。 |
由香里の頬にそっと口づけする。彼女は瞳を閉じて、僕の愛を受け入れる―― 空には幾層もの灰色の厚い雲が垂れ込め、僕の視界に映る海は黒と藍と灰の混ざった色をしていた。 波頭が連なり、やがて、眼下の岩にぶち当たり、低くこもる音を立てる。僕の顔を撫でるように湿っぽい潮風が吹きつけてくる。 「由香里……」 雪の舞う崖の上から、荒波を立てる日本海を眺める僕は恋人の名前を口に出した。 傍らに置いたキャリーバッグ。由香里と初めて旅行に行ったときに使ったもので、彼女同様、このキャリーバッグを大事にしていた。 由香里と出会ったのは、会社の忘年会でのことだった。嫌々ながら参加したのは、上司にこれ以上目を付けられたくないからだった。契約を取って来れないと、よく怒鳴られた。その度に、僕は自分がひどく小さくて価値のない人間なのだと思い知らされた。 僕は自分の席で酒をちびちびと飲んだ。 「営業課の田上さんよね?」 透き通るような白い肌の女性が僕を見ている。それが由香里だった。彼女はにこやかな表情で話しかけてきた。彼女の言うままに、お互いのメールアドレスを交換した。 年が明けてからすぐに由香里は僕を初詣に誘ってくれた。その頃にはもう、僕は彼女の美しさに惚れこんでいた。 由香里と付き合いだしたのは彼女が僕のアパートへやって来た頃。冬の日だった。しばらく話をしていると、意味ありげな沈黙が訪れた。彼女は長い睫を揺らし、僕を見つめる。僕は顔を近づけ、彼女の艶やかな唇を目指す。 「ちょっと待って」 そう言って、由香里はバッグからスマホを取り出し、困ったように顔をしかめた。彼女の美しく整った顔が、崩れた。 「妹がトラブルに巻き込まれちゃって」 「どういうこと?」 僕は由香里の物騒な発言に困惑した。 「妹が今朝、妹の車が歩行者にぶつかったそうなの。それで、示談金が必要なの」 由香里はすらすらと喋った。 「あなたにしか頼めないの。私たち、恋人同士でしょう?」 由香里の白く細い指が、僕の手に絡まる。冷たくて、蠱惑的な感触が、僕の指先から頭へと這い上がる。 財布にはそう大して金は入っていなかった。けれど、僕は彼女の助けになりたい。彼女に金を渡すと、ゆらりと彼女は妖艶に微笑み、僕の頬に口づけしてくれた。 春が通り過ぎ、夏を迎える。 僕は由香里と愛を育んでいたけれど、彼女と肉体的な関係は結べていなかった。あれからも、彼女の周りには様々なトラブルが起きた。母親がオレオレ詐欺に遭ったり、父親が病気で入院したり―― 金はどんどんと減っていき、僕は生活に困窮した。由香里は僕に助けに応じると、頬にキスをしてくれる。一度、僕が彼女の頬にキスをしようとしたことがあった。彼女は鬼のように激怒した。驚いた僕は、ただ謝った。 彼女への不信感は灰のように降り積もった。 「僕の事を、本当に愛してくれているのかい?」 すると、由香里は、せせら笑った。彼女の顔が、醜く歪んだ。 僕は思わず由香里を殴りつけると、――彼女は床に倒れ込んだ。 ざああっと波と岩が織りなす音。冷たく湿気た潮風。灰色の厚い雲。 そして、由香里に貰ったキャリーバッグ。 僕はゆっくりとキャリーバッグを動かすと、崖から海へと落とした。キャリーバッグは崖に何度かぶち当たり、やがて空中でその口を開いた。しかし、中には何も入っていない。僕は中身の入っていないキャリーバッグを捨てたのだ。由香里への思いを断ち切るために。彼女と一度だけ旅行に出かけた、思い出の詰まったキャリーバッグを捨てることで、由香里の事を忘れるのだ―― 病院の前に置き去りにした由香里はきちんと診てもらえただろうか。 由香里の美しい顔を思い出した。彼女の心が黒く汚れ、男の気持ちを食い物にするのは残念だけれど、彼女が人の心に気づいてくれることを願っている。僕と旅行に行った時、彼女は一度も僕に金を要求しなかった。きっと、彼女には良心があるのだと、僕は信じているのだ。 そうして、彼女への思いを断ち切ると、僕は元の小さくて何の価値もない人間へと戻った。 だから、僕は崖に向けて歩み、飛び降りるのだった―― |
2013/12/23 (月) 11:11 公開 2013/12/23 (月) 12:08 編集 |
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