バーテンダーの恋 <文芸部祭参加作品> |
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ローズマリー: あるバーの光景 |
12月、ニューヨークに雪が降る夜、ブルックリンの片隅にあるその店もひっそりと雪景色の中に佇んでいた。 古いビルの一階にある小さな店だ。木造りでまとめられたログキャビン風の店内は1ダースも入れば満員の狭さだった。カウンターに立つのは店主のジェフだ。30代前半、独身、黒い髪をオールバックに撫でつけている。客はいない。ジェフは溜め息まじりに白い布でグラスを磨いていた。「しけた夜だぜ」雪の夜はみんな足早にご帰還、といったところか。「今に始まったことじゃないけどな」年末、もうすぐ一年が終わりそうだった。しかし店の売り上げは右肩下がりだった。このまま売り上げが下がり続ければ最悪店も畳まなければならない。 そこへドアが開く音がした。客、しかも女だ。彼女はモスグリーンのトレンチコートに黒いマフラーを纏っていた。ドアを閉めて雪を払うと、ウエーブのかかった金髪から雪が零れた。 「どうぞこちらへ」 ジェフは女をカウンターに促した。コートを脱いだそのいでたちは茶色のカシミアのセーターに、クリーム色のフレアスカート、スウェードのショートブーツというものだった。ウエーブのかかった金髪は肩まで伸び、射るような青い眼をしている。 「マティーニを」と女は短く告げた。 「かしこまりました、レシピにご注文は?」 「そうね、ジンはビーフィーター、ベルモットはノイリープラットのエクストラドライで。辛さはお任せするわ」 女は早口にそう伝えると店内を見渡した。ずらりと並んだバックバーのボトル、ところどころ球切れになっているオレンジ色のダウンライト、床が時折ギシギシと軋む。音楽はルーツレゲエ=ボブ・マーレイだ。 「ねえ、どうして私が今夜ここにいるか知りたくない?」 「はい、知りたいですね」ジェフが正直に頷く。 「会社に行く途中に目に付いた店だったから。前から気になってたのよ」女が言った。平凡な答えだった。 「そうですか、こんな雪の日によくおいでくださいました」 「この近くのインテリアデザイン事務所に勤めているの。もっとも、今夜、見事にクビになったんだけどね。……過去形よ。予算ばかり優先してデザインのデの字もない、ろくでもないプランばかり垂れ流してどこがインテリアデザインよねえ。ムカつくわ」 美人だな、とジェフは思った。射るような瞳が印象的だ。 「アニーよ、アニー・オブライエン」彼女は短く告げた。形の良い唇がグラスに近づく。「あなたは?」 「ジェフ、ジェフ・アンダーソンといいます」 「もう、その慇懃無礼な言い方はヤメにしない? 高級レストランってわけじゃないでしょ?」 「そうですね、ただのバーです。……あ、いや、そうだね、ただのバーだよ。自慢といえば酒が揃ってることくらいかな」 ジェフはマテイーニを彼女の前に置くと同時に口を開いた。 「店のデザインを変えたいと思ってたところさ、もし君ならどうする? バーなんて衰退業種の最たるものだからね、何もしなけりゃズブズブと底なし沼みたいに沈んでいく。なんかいい手はないかな?」 アニーは頷くと店の中をひと周りした。「そうね、せっかくの木造りなんだから花があるといいわね。それとここのクロスはもっと明るい柄物で。あと照明はもう少し明るい方がいいわ。フライファンも欲しいところね」アニーが矢継ぎ早に指摘する。 「ふんふん、いいね。なるほど」ジェフが頷く。 アニーが歩くたびにコツコツと床を叩く音や、ブロンドの髪が舞う姿を見つめながら、ジェフは何故か胸がいっぱいになっていた。客に恋をするなんて思いもよらなかったことだ。アニーの青い瞳が店の中を泳ぐたび、ジェフは甘酸っぱい想いに浸っていた。胸がキリキリと痛くなってきた。僕はいきなり恋に落ちたのだ、と。 「なあアニー、その、壊れそうなこのボロ船を直して、新たな航海に向かいたいところなんだけど?」 ジェフは言いながら「外してるな」と思った。だが言ってしまったことに後悔はなかった。 「いいわよ」とアニーが答えた。 まさか、そんな、二つ返事だなんて! 「今夜はおれのおごりだよ」ジェフはそう言って二杯分のマティーニを作り始めた。 (了) |
2013/12/23 (月) 17:28 公開 2013/12/23 (月) 23:52 編集 |
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