ドンファン的男批判の無根拠 |
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いわゆるドン・ファン的な男は、反社会的で道徳的に堕落した存在とされている。いうまでもなく、一夫一妻制の規範から逸脱しているからだ。しかし、後に詳述するように、我々は昨今のダイバーシティ肯定の議論に照らして、彼の行為を批判する根拠がないことに気付くだろう。 ドン・ファン的性行動は制度の面から見て、悪なだけである。多数の女性と関係を結ぶことは、お互いに快楽に基づき、関係を結んでいる限りは、それ自体は悪ではない。翻って、一人の女性としか関係を持たないことは、制度を肯定・維持している限りで善なのである(なお、人間関係自体は、善悪の適用の対象とならない。人間関係の尺度は、快・不快である)。 しかし、その結果として、善悪の問題が生じるのではないか? なぜなら、それは女性を傷つけることになるからだ、と言う人もいるだろう。しかし、それは制度を肯定する側の論理である。持続的かつ排他的な関係という価値観を共有していない人には、何を言っても無駄だろう。それでも、「恋人」や「妻」という立場になることをほとんどの女が望んでいる以上は、不特定多数の相手と関係を持つ男は批判を免れないだろう。 男が多数の女と関係を持つことを許容している社会は少ない。そこから、一人の女と持続的・排他的関係を持つことに快楽を見出す男がマジョリティであり、ドン・ファン的行動に走る男は、マイノリティであると考えられる。まず、暴力を行使することなく、少なくない女性と関係を持てる能力を持つ男は稀少である。かててくわえて、そうした行動に走ることは、著しく時間的・物質的リソースを消耗する。ゆえにそこに真に快楽を見出していない限りは、それをなしうることは困難だろう。 かくして、我々はドン・ファン的男を批判する根拠を失う。マイノリティであることも、制度を揺るがせにすることも共に根拠にならない。それが批判の根拠になるとしたらダイバーシティの急先鋒であるLGBTも批判されるべきである。LGBTは性に関するあらゆる規範の外部に位置付けられる。同性結婚はまだ日本では認められていない。LGBTは、男女別で分けられるあらゆる境界を侵犯するがゆえに社会が黙殺していた存在である。LGBTであることは直ちにスティグマ性を帯びる。しかし、LGBTは、規範からの逸脱をためらうべきではない。なぜなら、そうすることが掛け値なしの欲望に根ざしているからだ。社会が断罪する欲望であっても、欲望こそあらゆる制度や法、道徳を超えることを肯定できるのである。 |
2013/12/30 (月) 22:58 公開 |
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