明王 |
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乳白色の窓から射し込んでくる光は淡くおぼろけで部屋の中を隅々まで照らし出すには至らない。その光のほかには室内に光源はなく、どこもうすぼんやりと照らし出されはっきりとした影が立ち現れてくることもない。どこまでも曖昧な、夢の中に生きているような景色が安穏と続いている。ただ夢のように美しくなどはなく、机の上にある食べかけのカップラーメン、そこかしこに散らかったティッシュ、埃っぽい空気などが悲しい所帯じみずにはおられない人の性を訴えているようでもある。 こんなことではいけないだろうと思う。切れたままの部屋の電球を取り替えるなり、あの窓を開けるなりしてはっきりした光を取り込まなければならない。どんな光でもいいが人はなにがしかの光を追いかけ求め続けなければならないのではないか。そうでなければ影を見ることが出来ない。生臭い動物としての本能を忘れては人とて生きられはしない。 そうだ。普通こんな茫洋とした部屋の中で生きていけるものではない。だというのにもう何年もこの部屋の中で生きているような気がする。おかしいな。一体外の世界というのはどんな感じだっただろうか。もう長らく誰か人に会ったことがないような気がする。しかしそうだとすればあのカップラーメンは忽然とこの部屋の中に出現したことになる。そんな非現実的なことがあっていい道理はない。何故ならたったひとつの非道理を許せばこの世界が瓦解しかねないからである。 カップラーメンはなかったことにしようとゴミ箱の中に放り込んだ。それでも相変わらず部屋の中は朦朧としている。そうか、もしかしたらこの部屋の中には他にも道理を無視したけしからんものが存在しているのかも知れない。そのせいでこの部屋はこんなよく分からない薄っぺらいものになってしまっているのだ。このままでは私の存在ごと消されかねないのではないか。 私は部屋の中を隅々まで調べることにした。 デスクの上には未読の本や書類、古いブラウン管の小型テレビなどがある。まずは本だ。和辻哲雄の『土風』とケントの三大肯定書、それに萩原照太郎の詩集なんかが乗っている。うーん、詩集はいいんじゃないかな、この部屋にあっても。私はそういう小難しくないけど文章に浸れるような、軽い気持ちで読めるものが好きそうだ。ただ他の学術書に近いやつは駄目だ。これは捨ててしまおうと決めてそれらをまたゴミ箱に放り込む。書類はどうだろうと紙の束を手にとってみたが、何せ部屋の中は薄ぼんやりしているから文字が滲んだようになっていてよく読めない。何の書類だかよくは分からないがそれを手に持っていると胸の内に嫌悪感が広がってきたのでやっぱりそれも捨てておくことにした。テレビはこのご時世どこの家庭にも少なくとも一台はあっていいだろうと思ったが、いやいやこの時代にブラウン管はないんじゃないだろうか、テレビ業界の趨勢は薄型のハイビジョンテレビに流れていっているのだからやっぱりこれも捨てた方がいいかもしれない。少し重くて手間取ったがそれもゴミ箱に突っ込む。 それから引き出しの中を調べた。文房具やら昔好奇心で買った使えない参考書、一番下の引き出しにはアダルトな本などもあった。まあどれも放っておいても害はなさそうなので、というかここまで来てちょっと面倒くさくなって来てしまったのでそのままにした。 広くなった机の上には悪魔が鎮座していて私の様子を嘲弄している。笑い声がうるさくてたまらなかったので私はベッドに潜り込みひとまず眠ることにした。今が一体一日のうちのどの時間に当たるのかもよく分からない。時計はあるが針が止まってしまっている。不透明な窓の向こうからは光が射しているのだから夜ではないだろうと思うが昼日中というような明るさでもない。夕方なら橙の光になる筈だから、となるとこれは明け方の光なのかもしれない――。 「お前は気が違っているぞ」 「私は気違いなんかじゃない」 布団を被ったまま笑う悪魔に反論した。 「気違いは皆そう言うんだ」 「なら正真正銘気違いではない正気な人が気違いであると言われた場合その人は何と答えればいいんだ。そのまま気違いじゃないと訴えれば気違いにされてしまうのか」 「決まっているだろう、自分は気違いだと高らかに宣言するんだ。狂っていない人間なんていない」 「嘘だ嘘だ真っ当な人だっているさ。ちゃんと人らしい人だっているさ。お前は悪魔だ」 そう叫ぶとどこからか青い大きな足が机の上に落ちてきて悪魔を押しつぶした。見上げると巨大な不動明王が丁度通りかかったところだったらしい。運悪くその御御足に押しつぶされ悪魔は息絶えた。救いの手を、手と言うよりは足なのだが、それを差し伸べられたことに敬服し思わず不動明王の後ろ姿に手を合わせながら、しかし悪魔が不動明王に打ち倒されるとはいかがなものだろうと疑問を感じた。 天から降ってくる光の中をマリアが降りてきた。高貴な光に照らし出された様子は遠目には美しかったのだが間近に見ると倦み疲れた顔には皺が幾筋も寄っていてまるで般若のような形相をしている。 「産みたくなかったわ夫の子じゃないのに。なんでよりによって私だったのかしら他の女でも良かっただろうに」 それだけ言い残して天へと帰って行った。私は帰っていくマリアを指さして笑った。 さて気がつくと天には神さまのような光が煌々と照っており、私の右後ろには影がいた。腹が膨れておりその中には泣きじゃくる赤児の声と娼婦の笑い声が満ちていた。 影は非常に理性的な合理的な思考の持ち主であるからパソコンの前に座り寒さに震える私にこう助言した。 「もういい加減こんな誰の目にも止まらないような私小説を書き散らかして現実逃避をするのは止めたらどうだい」 「そうだね、君の言うとおりだ。だからってじゃあどうすればいいんだ」 「差し当たりパソコンを閉じてベッドに向かい朝まで寝るのさ」 「その後はどうすればいいんだ。働けはしないし実家は貧乏だ。頼れる人もいないしそもそもこれ以上生きていたいかどうかすら分からない」 「頭ではそう考えていたって身体は生きるために絶え間なく働いている。呼吸、新陳代謝、体温。言葉で考えるからいけないのさ」 「考えなければ動物と変わらないじゃないか。もうこんな家畜みたいな生活はいやだ」 「人間は家畜じゃないと思うこと自体幻想だよ」 そうだろうかと私は悩んだ。そうかもしれないと思った。一部の自分の意志により生きていくことが出来る理性的な人間が、他の誰かに頼らねば生きていくことの出来ない人間たちを家畜のように操っているのかもしれない。言い方には問題があるにしろそれが事実ではないだろうか。 「幻想を持つのは悪いことかい」 「少なくとも法には抵触しない。問題はそれが君にどんな影響を及ぼすかと言うことだけだ」 「ぼくはあっちへ行きたいんだ」 そう言って私は光のある方向を指差した。影は苦笑を漏らす。 「そんなことを言っているからそんなことになってしまったのじゃないか」 影が言っていることの意味がすぐには分からなかった。辺りを見回しようやく気がついた。私は首だけになって独楽のように空中を飛んでいた。この様子では将門などよりずっと遠くまで首が飛んでいきそうだ。 しかし首は着地することなくどんどん地上から遠ざかっていく。大気圏から見下ろした地球は一面淡い雲に覆われてのっぺりとした灰色をしていた。 |
2014/01/09 (木) 17:36 公開 |
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