NAOKI(完全版) |
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小山内 |
正午だった。おそらくは地上では。斑鳩正耳の乗った涙滴型宇宙船JUJU‐38はヴァン・アレン帯を一気に通過して、木星までの長い旅へと進んだ。円形の小さな窓からはかすかな星の光と、あとは漆黒の虚空ばかりだった。 自分は宙に浮いている、というもう馴染になった感覚は、こんかいの旅では正耳に違った感覚を与えた。それはいよいよ孤独になるという心もとないものだった。地上では、ドーンコーラスと呼ばれていたものが、ここでは過去の人間たちの雑談じみた五月蝿さで、船のスピーカーを占領している。意味の読み取れないはるか遠くの喧騒に胸騒ぎに似たものを感じ、それが止むのをじっと待つ。背中の皮膚が乾燥し、手には汗をかいていた。訓練では一度も感じたことのないものだと正耳は訝る。まだ地球の衛星軌道を離れて半日も過ぎていなかった。 『心拍数があがっています。どうかしましたか』 雑音がふいに止まり、若い男の声が話しかけてくる。リング形の居住空間に居て、すぐ横の空間に誰かが座っている、そんな間近さだった。 「ナオキ」 と、正耳は船のマザーコンピューターに返事をした。 『よく知っていると思いますが、ヴァンアレン帯から反射される電波による障害は、すぐに解消します。計器に異常はありません。順調に加速していますよ』 「ああ。地球の管制室からは?」 『旅の無事を祈るメッセージが届いています。再生しますか?』 「いや、あとで、食事の後にでも聞くとしようか。まずは点検だ、長旅だからな」 正耳は気を取り直した。 居住空間がリングであれば、機関室はシャフトである。輪っかの中心にあり、両者をつなぐのはコリドールと呼ばれる四本の細いパイプだった。居住空間からシャフトを見ると静止して見えるが、自身が回転しているわけだから、シャフト空間に入るには強い慣性力を打ち消さなければならない。正耳の体重による慣性力の変動を、NAOKIが精密なカウンターバランスをとって手助けをする。リングの回転を減速し、やがて飛行士の体が宙に浮く。彼が機を見てシャフトに飛びつくと、こんどは船外でガスを噴射して、余分なエネルギーを打ち消すのだった。日常の業務は万事そのような感じで、二人三脚で行われる。 「ナオキにはわからないかもしれないが、輪っかとリングってのは、男女の営みを表しているんだって、飛行士の間じゃさんざんだった」 『その発想は健全です』 「おまえのボディーは性行そのものだってことだが、不快じゃないか?」 正耳はマニュアル通りに電子回路の負荷をチェックしていく。NAOKIの報告に間違いはなく、問題はない。それでも、飛行士には毎日の作業として、目視点検が義務付けられている。それを真剣にこなしながら、正耳は唯一の運命共同体に話しかける。 『皮肉や侮蔑は私には理解の難しい概念です』 「じゃあ、我々がそういう冗談で気を紛らわせる心理はどうだ」 『飛行士の心理ケアについては優秀なプログラムがインプットされています。地球上で受けるサポートと同質のものをあなたは享受できます。気持ちが塞ぐのですか?プログラムを展開しますか?』 「それはまたの機会にしよう」 三日目、正耳は地球に残した唯一の兄妹であるキャロラインのことを思っていた。キャロラインは宇宙開拓に偏見を持っていて、正耳を野蛮だと言って送り出した。それが、いまさらになって、子供のころのささいな言葉などが、どうしてか思考に付きまとうのだった。 「キャロラインが二十歳のとき、離れて暮らす父親へ手紙を送る、送らないという言い争いになり、俺は感情のまま妹を殴った。あいつは言葉を途切れさせ、恨めしげに睨んできたが、結局、それきりだった。手紙も、たしか出さなかった。俺の住んでいた六畳二間のアパートだった。父親が死んだときに、それはそのことがあってから二か月後だったが、キャロラインはもう一度、責めるような目で俺を睨んだんだ。無言でだよ。それからだったかな、俺たちが疎遠になっていったのは。最後は、地球を離れて開発するなんて、どうかしているとしか思えない、と、取りつく島もなかった」 『側頭葉の電気信号が活発になっています。後悔しているのですか?』 「そうかもしれない。こうして一人になると、こまごまとしたものどもが、心残りに感じる。むしろそんなことを心の中で探しているのかもしれない。キャロラインの目、睨み付けられているのだけど、もう一度見たい気持ちになる。しっかりとやっているだろうか」 『船には私もいますよ。結婚されているのでしたね。心配されることはないでしょう』 「おまえに何がわかる。こんなこともあった、まだ両親が同居していた頃だ。男のことで、もう、わからなくなった、どうしてだろう? って、相談に来たんだ。十七歳の妹が。ちょうど付き合っていた女ともめていた頃だったから、その相談も、女の感性がことさら俺のほうへ向けられた気がして、邪険にした。好きでやっているんだろう、好きに始末を突けたらいい、そんな返事をした。だめな兄だった」 『そうかもしれませんが、その穴埋めはいまの夫君がしていることでしょう。心配無用です』 「うん、会ったことのない男だが、無性に腹が立ってきた。ちくしょう」 正耳がコンソールに両腕をたたきつけると、NAOKIが悲鳴を上げる。それは悲鳴ではなく、精密な電子回路が力場干渉を起こしているのかもしれなかったが、正耳には悲鳴に聞こえた。 「痛いのか?」 『痛みはありません。ですが物にあたるのは野蛮な行為です』 「野蛮だと、この野郎!」 正耳はかっとなって、コンソールデスクを蹴りつける。 「やめ…ガピーン…や・め…ガガッ」 二十日目。地球の管制室ではNAOKIの人格のもとになったプログラマー、巽直樹が、はるか火星軌道から送られてくる画像に眉をしかめていた。 200インチの巨大スクリーンでは、飛行士の正耳がNAOKIを拷問している。電子回路に電極を当て、微弱電流を流しては、謝罪の言葉を要求するのだった。 「どうやら失敗ね」 妻であり同僚のキャロラインが言った。巽はその肩に手を置いて、女の表情が変わるのを待つ。やがて現れたのは冷笑である。 「君は本当に兄さんに野蛮だなどといったのか?」 「全く身に覚えがない。正気じゃないわね」 「ううむ。いったいなぜ兄さんがこんどのミッションに選ばれたのだろう?」 「さぁ? でもひとつだけ心当たりがあるかな」 巽が首を傾げると、キャロラインはおもむろにブリーフケースに手を伸ばす。中から出したのは見慣れたバラ鞭だった。 「NAOKIは潜在的にこうなることを望んでいたのね」 キャロラインの腕が振り上げられ、鞭が勢いよく風を切った。 |
2014/02/06 (木) 00:12 公開 |
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