春闇 |
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押利鰤鰤 ◆M1Bei0tBWg: 創芸戦第1回戦 第1試合 |
これが噂に聞く走馬燈なのかと私は思いました。ある春の夜、自分の暮らすワンルームマンションの床の上に、私は仰向けに倒れてました。お腹には三年ほど付き合い、別れ話の最中に元恋人に刺された包丁が深々と突き刺さっています。そこから大量の血液があふれ出ているのです。元恋人はすでに逃げ去ってしまった後で、部屋の中にはもういません。できる事ならばせめて救急車を呼んで欲しいところでしたが、今となってはそれも望めそうもありません。自分で救急車を呼ぼうにも、起きあがる事はできなくて、携帯を手に取るという小さな希望さえも叶いません。朦朧と薄れゆく意識の中で目の前に広がるのは、過去の楽しかった思い出の数々です。そして全ては暗転し、目の前に光りは無くなりました。 闇の中で誰かが私の名前を呼んでいます。とても懐かしい声が、心配そうに何度も何度も私の名前を呼んでいるのです。その声は涙が溢れそうなくらいとても懐かして、暖かい声でした。 「ちーちゃん!!」 目を開くと、そこは私の実家にある自分の部屋でした。まだ頭がはっきりとしない私の肩を掴んで、酷く心配そうな顔をしているのは幼なじみの敦子でした。 「大丈夫?ずいぶんうなされていたけれど、怖い夢でも見たの?」 そう言われて、私は自分の部屋を見渡します。ベッドの上にパジャマ姿で寝る私と、可愛らしいパジャマ姿とはうらはらに、心配そうなかおをしている敦子がいました。そういえば、今日は私の家に敦子がお泊まりに来ていたのでした。 「夢を見たの。殺される夢。23歳になっていた私は同棲していた男の暴力に疲れ果てて、別れ話をしたの。そうしたら男は土下座して謝って、別れないでくれとか言うのだけど、私の心は決まっていて、殴られようが、蹴られようが、絶対に別れると言ったら、男は台所から包丁を持ってきて、それで私のお腹を刺したの。絶対に助からない量の血が出てた。おまけに傷から小腸とかも出ちゃってた」 「嫌な夢ね」 そう言って敦子は笑います。すっかり目が覚めてしまい、それならば外に散歩に行きましょうと彼女は言いました。 時計を見るとまだ午前三時を少し過ぎたばかりで、外は月も出ていない真っ暗な闇に包まれています。中学三年生になったばかりの私達が、気軽に出歩けるような時間帯ではありません。 「大丈夫よ、もうすぐお日様も昇ってくるわ。ちょっと早めの朝の散歩に行くだけよ」 敦子がそう言うので、私達は着替えると寝ている私の両親に気がつかれないよう、静かに家を出ました。外は月も無く、本当に真っ暗です。私達が住む空気が綺麗なだけが取り得の田舎は、家々の間隔も離れていて、まだ寝静まっています。だから春の夜空にきらめく星々の光りだけが全てでした。春とはいってもまだ肌寒いのです。そんな中で敦子は私の手を取り握りしめ、まるで導くように少し先を歩いています。暗くてその表情を見る事は私には出来ません。ただ寝る前に一緒に入ったお風呂で彼女が使っていたシャンプーの良い香りだけが私の鼻に届いてくるのでした。 「ねぇ、どこにいくの?」 「この先にある小山の上に登ると、朝日がとても綺麗に見えるのよ」 この土地で生まれ育った私でしたが、そんな所があっただろうかと思いました。そんな場所を知っていて、つまずく事もなく歩いている敦子は、こんな風に一人で早朝の散歩に出かけているのだろうかと思って、私はとても重要な事に気が付きました。たしかに敦子は一人で早朝の散歩に出かけていました。そして崖から落ちて死んでしまったのです。それは私達が中学への進学を間近に控えた、今日のような春の日の事でした。私がそう気が付いた瞬間、敦子に握られていたはずの手の感触は無くなり、私は暗闇の中に放り出されたような状態になってしまいました。もう、前も後ろも解りません。 「大丈夫。そのまま先に進みなさい。ちーちゃんなら大丈夫」 敦子のやさしい声が遠いところから聞こえてきます。姿は見えません。ただシャンプーの良い香りが微かに感じられるだけです。私は彼女の声が聞こえた方に向かって歩き出す事しかできません。もう一度、彼女に会える事を願いながら、春の闇の中を軽快に突き進むのです。そして、私が光りの中に包まれて、次ぎに目を開けた時にいた場所は、集中治療室のベッドだったのです。 |
2014/03/01 (土) 01:19 公開 2014/03/02 (日) 11:04 編集 |
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