「おいしい生活」 |
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創芸戦 準決勝 第一試合: 「おいしい生活」を作った糸井重里は、ブイヨンという犬を飼っている。 |
年度末の繁忙期、帰宅に喜ぶ犬に付き合うのもそこそこに台所へ向かう。 「ごはんある?」 「野菜のスープがあるよ」 スープ?晩飯なんだけどなあ。とにかく鍋を発見し、くわん、と蓋を開けて絶句した。 鍋いちめんの千切りキャベツ。匂いからして土台はコンソメだ。昨日は妻の得意料理のトンカツだった。おそらく昨日トンカツに添えられた千切りキャベツだが、その再利用の大胆さにめまいがする。直球すぎる。鍋蓋を持ったまま固まる俺に、 「ほら人参もあるから、ね」 ごまかすようにまとわりつく。俺の名字の糸井にあやかりブイヨンと名付けた犬もそれに加わる。……ちょっとまてい。 糸屑のようなオレンジ色。これが人参か。「いろどり」だな。何かというと「彩りが」というが、まず味だ。次に栄養だ。家の飯をフェイスブックで掲げ、幸せな新婚生活を宣伝するなんて愚行はお互いしない。故に彩りより大事なものがあるはずではないか。鍋を見つめ続ける俺をあやすように、ふたをとりあげ、お玉を渡しながら、また妻が言う。 「ベーコンもあるしさ。」 お玉で探れば今度はぎょっとするような大量ベーコンの巣窟だ。絡み合って沈殿するベーコンにおののく。いったい何が?賞味期限が近かったの? 「ベーコンって不憫だね。ベーコンはメインになれない。ベーコンスープなんて日本語聞いたことないもん。豚骨ですらトンコツスープなのにね」と、鍋蓋を後ろ手に呟く彼女。 何の小芝居だろう。学生時代から長く付き合って妊娠を機に初めて一緒に暮らすと、彼女のエキセントリックさがさらによくわかる。たいして美人ではないが、結婚して暮らしても飽きないだろうなと思ったのが結婚を決めた一番の理由だ。 「スープが完成するには必要な存在だよ。ダシになったんだ」俺も重々しく応じる。 「でもベーコンがダシなら、ベーコンスープでいいのに」 ベーコンベーコン。ベーコンにどんな義理があるんだよ。賞味期限の管理が甘かったんだろ、とはつっこみかねて、温まったスープをよそう。しかたない、これを食おう。ブイヨンが先導した先、食卓に椀を運んで椅子に座ると彼女もついてきて向かいに座る。ただし斜め45度を向いて。 「形状が悪いんでしょうか、解説者さん?」と、手を組んで顔だけこちらに向けて問うてきたので、スープを吹き出しそうになる。なんだよ、それ。かわいいな。 「そうですね、やはり存在感がね、量はあってもペラペラですとね、しかしスープはうまい。良い仕事をしてますよ」 って何を言わす、といえばニコニコしながら「私はベーコンエージェントだからね」 どんな秘密組織だよ。ベーコン大量殺戮組織か?合わせるつもりでそう言ったのに妻の笑顔が消える。足元のブイヨン君は部屋の隅へそそくさと移動した。 「キャベツだって千切りになった時点で、面倒くさいロールキャベツなんかにはもうなれないんだから」 突然の急降下、何を言ってるかもよくわからない。キャベツ?一昨日、俺が母親の得意料理のロールキャベツをリクエストしたのが不味かったのか?困惑する俺をおいて彼女は続ける。ベーコンはメインになれない、とさっきの話を。 ねえ、私は、という名前だったの。結婚したら糸井という名前になって、という名前は消えた。でも、シュウ君もキャベツ本体から離れたんだからね? ……把握した。千切りキャベツは俺だ。シュウはフランス語でキャベツなんだよ、と言われたことがある。彼女は涙声になり鼻の頭がピンク色になってきている。ピグレット……と思いかけて慌てて打ち消す。いや、リサはもっと可愛い。 このスープの惨状は給料日前にトンカツでロールキャベツと張り合ったからではないだろうか。糸井家本体と何があった? とりあえず、鼻に「ごめん」とキスをする。やたらキスをさせる妻の機嫌をとるには有効なはずだ。もういっちょ、まぶたにキスしながら、思い出した。彼女の母の旧姓はBacon、だ。カナダから日本に嫁いで苦労し早くに亡くなった。agentは代理人か……悪いことを言った。 でも俺だって結婚で将来の可能性が狭まることを覚悟したんだぞ、とこれを言うつもりはないが。 俺と美味しい野菜スープをつくろう、ベーコンも満足するような。この台詞は言うべきか。 糸井リサが笑うか切れるかを見極めている俺の窮地を犬は鼻を鳴らすだけで済ませた。 |
2014/03/11 (火) 19:01 公開 2014/03/16 (日) 23:19 編集 |
作者メッセージ
ブイヨンはジャックラッセルテリアてす。 |
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