dip! |
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参考作 |
昨日まで卒業式の予行演習なんかして証書のもらいかたまで練習させられて。 卒業生は卒業する練習をしなきゃ卒業できない訳じゃない。アクシデントのない卒業式なんて誰のものなんだろう。 卒業式は誰のものだ?想定される答はタイプABC。 タイプA。お前たちが主役だよ派。 テレビドラマの教師のように、海外ドラマのように、肩を叩いて親しげに。 タイプB。親御さんたちだよ派。 説教、すべて説教。こんなことを考えてる暇があったら、感謝しろ努力しろ。 タイプC。全ての関係者のためのものよ、と世界は一つで美しい派。答えを全体へと委ねる洞が峠。 奇妙な質問には奇妙な視線が返るものだ。 奇妙な、という僕の感覚はわかってもらえないかもしれない。孤独だ、というほどの感慨もないのだけど顔か壺かの境界線、ルビンのツボ的立場のあやふやさに、ポツンと立っている混乱がある。 学校の過去の内部者になりつつある、外部者でもないもの。在校生とは呼ばれない、しかし在校生であるはずの卒業生は、いったいなんなのか。主役?であるにしては随分受け身で、名前を呼ばれるのをただ待つだけの存在じゃないか。じゃあ見世物なんだろうか。見世物、なるほど。見世物ならば練習もさせられようし主役でもない。観客を楽しませる茶番劇。 送辞を読む者も、答辞を読む者も、あらかじめ式を望んだときの自分の気持ちを想像で書いて、できあいの気持ちを今感じているように読み上げる。涙する。 ブラボー。 観客が期待しているのは、輝かしい青春を過ごし、感謝と感傷をたたえて涙する姿だ。 練習をさせられて、卒業する擬似体験を既にしているくせに飲み込みの悪い間抜けどもをそこまでにするのは大変だ。 練習すればいいってもんでもない。 そこに本物の式を立ち上げなければならない。本物とは、卒業生が卒業するのだと理解できる式典をいう。 単なる通過点に過ぎないと思わせてしまえば、負けだ。そう、これは勝負だ。 区切りというものを人生に刻む儀式は、時がだらだらと続くことを知っている大人たちの、時に対する勝負だ。人生の計り方を求めている大人の希望だ。そして子どもへの贈り物。 子どもはいい。学校の進級がある。目に見える向上がある。一年生から二年生へ。三年生へ。大人になれば、昇格できるかどうかはわからない。平で居続けることすら確かなものではない。 スミマセン、適当を言いました。 しかし、卒業というのは区切りとなるものには違いない。 卒業は、通過点にある旗に過ぎない。 だが、振り返るときの人生のポイントとなる旗印。 |
2014/03/20 (木) 21:47 公開 2014/03/23 (日) 23:09 編集 |
作者メッセージ
こういうことをだらだら独白する主人公を書こうにもかけず |
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