dip. |
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創芸戦3位決定戦 |
diploma/dplm, d-/【名】({複}〜s, ≪まれ≫〜ta) [C] ≪英≫卒業[修了]証書;〔学科・大学院の〕学位〔in〕(【略】Dip, Dip., dip.) diplomacy【名】[U] 外交;外交術. ≪正式≫外交的手腕;駆引き(のうまさ). dip[a 〜] ちょっと浸す[つかる, 上下に動かす]こと;≪略式≫ひと泳ぎ. [a 〜] (スープなどの)ひとすくい. [U][C]浸液;洗羊液. [C][U]ディップ《パン・野菜などを浸して食べるドレッシング》. [C]〔土地・道路などの〕沈下, くぼみ [C]〔本・テレビなどを〕ちょっと見ること, 〔…の〕簡単な調べもの〔into〕. [C]〔体操〕(平行棒による)腕の屈伸運動. [C]≪米略式≫まぬけ. いつものように空いた席はないかと見回し、なければ扉近くの席の前に立つ。それからポケットに突っ込んでいたネクタイを一応締めておく。ブレザーにストライプのネクタイ。良家の子息を演出するプレッピースタイル。今ではタイの上下の長さを一度で合わせられるまでになった。 受験勉強中は参考書ばかりを見ていたから、久し振りの電車の窓の景色は懐かしいとすら思う。気怠い眠気が背を這い上がってくる。 ほんの四分の一時間。このひとすくいの時間を卒業する。来月からは県外で一人暮らしをするから。 電車はいったん地下に潜った。停車前の急カーブを吊革をつかんでバランスをとるタイミングも慣れたものだ。それから僕は、また電車を降りて地上に上がる。 人生のなかの三年間。奇妙な場所にいたなあと思う。同じ服、同じ靴に同じ本を持って。朝、群れる羊のように教室に収まり、夕方にまた放される。教育という液に浸され、その液の染まり具合を定期的に確かめられながら。 何を学んだか、と言えば外交術かもしれない。教師受けと、クラスメイト受け。この二つの利益のぶつかり合うところで巧く振る舞う技術。これに先輩と後輩との間での振る舞い方も含めて見ると、随分窮屈な場所で居場所を確保していたようだと思う。 その狭い場所から飛び出してのひと泳ぎ。卒業式ボイコットの動機は教室のガラスを割るような、自発的で他者への主張を伴うものではない。ただ誘われたから。……まぬけな話だ。 英語科準備室は、山の上に建てられた男子高の半地下に位置する場所にあって、生徒も敬遠し、教師に用事があるなら教室で捕まえる。 あのとき僕は教室で捕まえ損ねて、冬休み最後の特別講義の申込書を提出しに薄ら寒く仄暗い半地下まで遠征したのだった。 あいにく目当ての教師は不在で、ノックすると出てきた去年来たばかりのまだ若い女の教師に、かわりに申込書を渡してくれるように頼んだ。弁当を食べていたらしい教師は、口の端についた白いマヨネーズだかを舐めとりながら確認するように申込書をちょっと見、じっと僕の顔を見て、それから吹き出した。 三十五歳、子持ちの! 確かに老け顔の僕は老成していると言われ、三十五歳子持ちの高野君とことあるごとに言われ。生徒会長をしてからは尚更よく言われた。 校内中に拡がったのは会報に乗せた同級生書記のふざけたコメントが発端だ。――実は彼、35歳、子持ちですから。 よく言われますけど、子持ちになる覚えもないし年齢詐称もしてないので。 からかわれるたびに言う言葉と共に申込書を押し付けて踵を返す。 待って待って。怒っちゃった? それから何があったのか上手く言えない。なんとなくそんな雰囲気になり、駆引きの成果にメアドのメモを渡された。 改めて呼び出されたのは卒業式の今日、だった。指示通り辞書を携え、置き忘れた辞書を取りに行くという口実で訪れた他に誰もいない英語科準備室は、珈琲の匂いとその女教師の香水の匂いがし、蒸し暑かった。そして"dip" 。張り付くシャツの不快感に顔をしかめながらネクタイを掴みあげて部屋を出た。今思えば、じゃ、元気でねえと軽く言われたのが高校生活最後の別れの言葉だ。 家に着いて僕が一番最初にしたことは、あのメモを英和辞書に挟み、辞書ごと捨てることだった。 |
2014/03/21 (金) 17:21 公開 2014/03/23 (日) 23:08 編集 |
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