まぐにゃんずストーリー1 「養護」 |
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真愚名 |
奴は僕を「養護」であるといった。永沢のことだ。奴は少なくとも知能が劣った物として僕を見ようとしていた。確かに僕の容貌には多少「養護」であると認識させるような部分がなきにしもあらずだった。我ながら端正だとは思いつつも、白痴的で感情や知性を欠いているのである。少なくとも僕は鏡で顔を見ることを毎度怠らなかったのだ。少しでもそこに知的障害者性があらわれていない、かどうか、よくよく確かめて見たかったのだ。僕の同級生に佐南という女がいた。僕はこいつを斧で叩き割って、脳味噌がどういう池沼な仕組みになってるか確かめたくて仕方なかった。其奴は突然養護学級に入れられたわけだ、僕の今から思い出しても深い極まりない支配主義者の女教師の滑川がいかにも哀れげにその女が養護教室に入れられることを明言していたのだ。曰く佐南は初めて友達が出来たんだよ云々。全く何を言っているんですか滑川先生、お前はそうやって生徒の個人情報を晒して皆に共有させようとしているのだな。僕の担任の港嶋は佐南さんは赤ちゃんの頃の刺激がたりなかったんですよと、僕がお袋にいった僕自身が養護教室に入れられるのでは無いかという恐れを、お袋がこの鬱陶しい女教師に話した時に云った。都合のいいことである。都合の悪いものを都合良くするために養護教室に入れるのにな。上級生の徳永にしてからそうだった。徳永は僕の上級生の二年にいた、この男はマジモンの自閉症で頭の髪の毛を抜いてしまうのであった。そういうことをこの滑川の屑ババアは皆にばらして共有させようとしていたのだ。二年で僕の先輩に当たる弟が、賢明に兄を支えてるなんぞという御清談がお袋の口からか誰からか聞かされていた。今でもお袋は時々電車でこの男が自分の世界に浸ってるさまを、よくみるらしいのだ。兎に角永沢のやつは僕の「養護」と言うレッテルを張ることによって、僕を知的障害者の仲間入りをさせようとしているのだ。僕は英語倶楽部だった。兎に角僕を知的障害者視する声は多く、その倶楽部の最初の時に、なぜか一緒にやることになった先輩と、何か作業をしてる時だったか、その先輩の同級生が入ってきて、この子も、あの徳永兄みたいなの、っていったんだ、確か徳永兄と同級生ではなかったかその先輩も。徳永兄みたいに「養護」の子なのってことだ、そのままの意味で。其れに応えてその先輩は曰く、いやそこまで話せないほどじゃないでしょ、だったか。もう忘れたけどそのような意味で。それで僕は自分が知的障害者の烙印を絶えず押されていくことを認識したのだ。少なくとも僕は「養護」だと永沢にいわれたのとその話は近いものがあるのである。だが佐南は僕を避けていた、僕を汚い奴であるようにみてた。それは僕が鼻くそをほじるからで、雲脂を落とすからである。小学のころからそれはそうだった。親戚の女である宮永は、僕とオセロをするほどだったが、僕が机の上に雲脂の山を作っているのを見て、恐ろしく避けるようになった。手で触ったとこを汚いと拭かれるまでになった。そいつは中学では共に進まなかったけど、進んだ後も兎に角僕は汚い奴だという風にみなされていた。いやいっそうきたないやからとみられていた。触る事で何度拭かれたことか。ケガレの子供だった。同級性の谷と言う女は僕がプリントを障る時手が触れたのでその手をハンケチで丁寧に拭っていた。小指の先までという感じで、熱心な拭き振りだった。ちなみにこの女は宅間守が池田小学校を襲った時体調が悪くなったとほざいていたものだ、この偽善者が。僕はちなみに宅間と同化していた。その時僕は音楽の授業の一環で女ばかりのところに「黒一点」(港嶋の言葉である。巫山戯たババアだ)で授業を受けていた。この音楽の発表の時に僕がその撮影カメラの前をいかにも「養護」染みた有様で通り過ぎていって皆の笑いものになった事は記憶に新しい。兎に角こいつ等はその巫山戯た声で笑うことで僕を除外しようとするわけだな。兎に角こいつ等にとって「養護」の僕は笑われるべき存在であったらしい。足の不自由な人の試合を見にいった時に、このクソババア女教師の港嶋は風邪が喘息(僕は元喘息持ちだった)見たようになって咳込む僕にその不自由な人が渡した塩入の水を決まりに反するからと(他の生徒共が密告したわけだ)、奪い取っていったのだ。後で返してきたがその時は咳が収まってた。その時に飲みたかったんだよ。巫山戯たクソババアだ、死にやがれ。今なら少年法を知っているのでこのババア確実に殺してやったのにと臍を噛む始末である。ちなみにこの港嶋は三者面談の時は都合のいいことを言って僕の気を宥めることはできた。それに騙されるほど僕はまだ子供だったわけだ。「まぐにゃんは養護である」つまりは連中はそういいたいが「養護」という言葉を使うほど、取り繕わないといけないご身分であったようだ。お袋の教団の人生相談のお告げ担当の人は、(お袋に質問するようにされたわけである)僕とこの女教師が仲が悪いとか勘でいったらしい。こんな教団今までは信じるに値しない(このことは別の章で書く)が、このそりゃ男と女しかいないのだからどちらの教師だろうが、この女教師はとにかく屑だった。屑にならんと屑のがきどもを御せないのか知らんが、てめえらのような屑教師共はさっさとくたばれよといいたくなるものであるのである。一年の時の担任渋谷は生徒を押さえる力がなかった。その後結婚、僕が卒業するころには随分と手慣れてきたようだった、その後再び返り咲いて現在同校の教頭に収まったらしいふざけんなよ糞野郎。兎に角てめえの人生の第一期で僕はどうでもいいのかもしれんがお前に抑止力がなかったせいで俺は背中に墨汁を掛けられたり、鞄の中に唾たらされたりしたんだ。腹も殴られたしな。僕を虐めた主犯の綿瀬は一年でさっさと転校していきやがったが、兎に角こいつ等は今でもフェイスブックで繋がっているらしい。永沢はあれだけに嫌がらせをした癖に現在では教師をやってる、巫山戯た奴らだ。大人になっても慣れ合いやがって。兎に角永沢の奴には「養護」と連発されまくったもんだよ、「養護」か、「養護」か、お前「養護」か。小学の時の同級生等は助けてくれなかった。それどころか、中学になって同級生と仲良くなりやがって僕を批判する始末。ちなみに今でこいつ等はフェイスブックで繋がってる。薄ら馬鹿じみた奴らだ。文化祭の準備ではこいつ等に散々いびられた物だった。曰く足が臭いと、足が臭いなら俺を文化祭に出すな、家で休ませろ、屑みたいな奴らだこいつら全員殺してやればよかった。少年法の範疇だったからね。英語倶楽部にしても随分と僕はお道化を演じさせられた物だ。顧問が三年で三回もかわりゃあそうなるさ。計四人(先輩二人、後輩一人)ばかりはいて僕の他は全部女だった。先輩の一人はなんか知らんが、僕の一個下のやつと馴れ合う為に来ててその先輩が卒業? した際に、その後輩も止めたわけである。巫山戯た奴だ。僕と英語をするのは楽しくないのか。そりゃ何か英語の催し事であちこち連れ出されたさ。しかし相変わらずつまらなかったし、最初の顧問は兎に角僕を罵倒した。先輩の一人も最初は好意的だったが、「まぐにゃんには全部教えてあげないといけない」と僕に教えるのを面倒臭そうにしてやがった。いつもこいつらはそうだ。自分らで課題を僕に押しつけるのにそれを僕が出来なかったら教えてやらないといけない、工作(この工作の教師は如何にも人生の先輩ズラで説教かます、つまらないやつでねえ)の時、腹を殴った奴にミニチュアタンスを組み立てて貰ったことはあったが僕がそれをする義務は一切無い、そんな物作ってなんになるんだよボケ。いい加減にしてくれ。授業というのは大概つまらないこと何の訳にも立たないことをやらせるのだね。況してやクラブ活動など。お袋は通ったのが偉いとかいうが実質は何百日もの愚かさ加減を耐えさせられただけだった。体育教師もくずみたいなやつだった。僕が腰を痛めたり、恐らくインフルエンザにかかったりしてるときに組み体操や授業をさせられた。こちらがしんどいともいえないところに屑みたいな奴とボール投げさせられたな。悪態を兎に角僕につきまくるんだ。死ねだと、お前こそ死にやがれ。組み体操の時僕を罵ってきやがったやつがいるだろ糞め。何でお前みたいなやつとそんなことをしなけりゃならんのだ、なんでこいつ等は将来の全く何の役にも立たないことをやらせるのだろう。まじで殺してやればよかった。数年の少年院で社会復帰だろう。たいしたことないよ。高校に行かなくてもすんだしな恐惶頓首。 |
2014/05/07 (水) 20:41 公開 2014/05/11 (日) 04:11 編集 |
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