遡行の終端 |
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もりそば某: 食欲の秋祭り参加作品 |
駅を出ると出迎えた木枯らしが、多くのものを失った僕をかき回す。すると、一つだけ残った君との幸せな記憶が撹拌されて広がった。 久しぶりに訪れた町はすっかり様変わりをしていたけど、僕にとってそれは何の感動も呼び覚まさない。自分の変わりように比べればそんなことは些末でしかないからだ。 地図を広げて歩き出す。かつてこの町に住んでいた頃とは別の道だけど、当時のことが次第に蘇って、ほとんど空っぽの僕の中に一つ、餓えという惨めな感情が熱を帯びる。体はすっかり空腹に慣れきって忘れてしまっていたはずなのに。 まだ僕がこの町で就職をしたばかりの頃だった。君と一緒に住み始めたのは。 大学で忙しいだろうに、君はいつも料理本を見つめながら危なげな手つきで料理を作ってくれた。添えられた不安気な君の表情が、素直に言ったおいしい、の一言でほころぶ瞬間が好きだったんだ。今でも思い出せる。あの味と君の花開いたかと思えば急に照れてそっぽを向いてしまう仕草を。 全てが変わってしまったのは僕が結婚をしてからだ。 それまでは家事があんなに大変だなんて知らなかった。君がどこか楽しそうにしているから簡単だと思いこんでいた。 帰って誰かが家に居ないのが寂しい、そんな当たり前のことに改めて気がついた。 何よりも、舌を過剰に刺激するはずのカップラーメンが砂のようで狂いたくなった。だけど少なくないはずの稼ぎを詰られて渡される五千円ではそれしか食べられない。 だけど、それが続けば当たり前の日常になっていっていく。蝕まれていく感情がそう僕に諦めろと促すけど、それはわだかまる黒いものに蓋をして押し付けていたに過ぎなかったのだ。 ある日僕があげた手は、薄氷の上に成り立っていた結婚生活を砕くことになる。新しいのや古い痣だらけの僕にあの女弁護士は言った。恒常的な妻への暴力は目に余ると。節穴ですねと久しぶりに漏れた笑いは自分でも驚くくらい乾いていた。女弁護士は赤くなって怒鳴り続け、やがて酸欠になって青くなる。信号機みたいですね、ともう一度僕は笑った。 くしゃくしゃになってしまった地図をまた広げる。この辺りに立ち入ったことが無かったので慎重に道を選びながら。 たどり着いたのは同じ形の建物が二棟並んだ真新しいアパート。地図に探偵が書きこんだ赤丸の中にあるアパートの名前をもう一度確認する。間違いなく、この西側を二階への階段を上がってすぐの部屋が目的地だ。 階段が足音を過剰に響かせる。階段を登り切ってその部屋の前へと差し掛かると、窓から資格灯りの色が見える。いつの間にか夜になっていることを気づいていなかった。 そこは台所なのだろう。換気扇がついていて、そこから吐き出される懐かしい匂い。それは記憶と違わぬもので、きっと君があの頃から変わっていないということだ。まだ僕を待っていてくれるに違いない。 あの時の誤解を解かなくてはならない。幸せに溺れ麻痺をした僕はただ、新しい刺激が欲しくなってしまっただけなんだ。酷いことも言ったが本心では無かったんだ。断言できる。あれは一刻の誤りでしかなかったのだと。 玄関灯のおかげでインターホンはすぐに見つかった。 これを押せばあの日々が戻ってくる。やりなおそう、一緒に。そのために僕は何もかもを捨てて戻ってきた。また君の料理が食べられると思うと、目に見えるものが改めて彩りを取り戻したかのようだ。 だけど、焦がれた瞬間のはずなのに、触れたボタンを僕はどうしても押すことはできなかった。 インターホンの上、丁度僕の目線の先にある表札には幾度も呼んだ君の名前を含めて三人分。知らない苗字と一緒に書かれている。 ドアに遮られて小さく聞こえた赤ん坊の泣き声が僕にはとても大きく聞こえ、耳を塞いで蹲っても脳裏に何度も木霊し続けた。 |
2014/10/10 (金) 22:35 公開 2014/10/12 (日) 19:02 編集 |
作者メッセージ
この後めちゃくちゃ警察沙汰になった。かもしれない 1012追記: 「食の記憶」がテーマです。主人公ざまあ、と誘導するために修羅場系のまとめサイトにサンプルが多い身勝手な二股野郎を登場させてみました。 その歪んだ思考が書けるかとの実験でもありましたが、見事に失敗して力不足を露呈させてしまいました。 シナリオは、二股をかけていた男が『君』を捨てて結婚したところ妻が豹変。ケツの毛までむしられた後、以前に振った『君』に頼れば無条件に助けてくれるに違いない。そう考えて『君』を探し出したらすでに結婚してました。となります。 怖いよね。まとめサイトにはこの『君』視点の話がざっくざっくでてくるのです。 というわけで心配は杞憂なので通報しないでください。>>2 |
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