唇 |
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マグナ: 食欲の秋祭り |
彼女は一心不乱に食べ始めた。ナイフとフォークを交叉させ、皿を動かしながら、時折ソオスを廻りに撥ね飛ばして。 ここまでの食欲を彼女は何時獲得したのであろうか。少なくとも私が彼女と同級生だった時分は、彼女は細い、小枝のような手足を持つ、酷く陰気な娘だった。押し黙って何も返そうともしない有様である。まるで唖なのかとすら思われたが、私がその手を握り、その薄い皮越しの肉を愛撫した時分には薄い唇から確かに声が漏れたのだ。それは確実に聞いた事である。 学校を出ると同棲を始めたのだが、彼女はとにかく物を食わなかった。例えば莢豌豆のマメ三粒を喰って昼食に間に合わす次第なのであった。是非共喰わなければならないと諭したところで、豆五粒が関の山だった。 彼女と町を歩くと、通り行く人は皆、こちらを見た。私が太りすぎているという事情ではない、それは断じてない、現に太った人間ならよく見かけるが、彼女ほどか細い人間はなかなかお目に掛からないのである。視線がやがて嫌になり、二人では滅多に外出しなくなった。 その彼女が食べ始めたのである。いつからのことであろうか、私が帰った時だったと記憶する。冷蔵庫が開いたままとなっていた。後はあまり語りたくはないが、食べかけの胡瓜やら、トマトやらが床に転がっていたのである。サラミのパックやらが床に転がっている。冷蔵庫に頭を突っ込んでいるのは彼女だった。歯に糟が食い込むのも恐れず、と形容していいのだろうか。それが一心不乱の事始めだ。 本人に聞くと通信教育による自己啓発によって、だという。なんだそれはと何度問い詰めても答えは返ってこずに、彼女は虚空を見詰めるだけであった。何を話しても常に食べている、そういう状態が続いた。数ヶ月すると細かった彼女の身体は次第に豊満になっていった。それこそ見事な具合であった。寝床は随分と暖かくなったものだ。 彼女が食べているところを見るのが私にはとても楽しくなり、それが一つの趣味となった。彼女の唇の光が増していくのを感じた。そう、彼女は口紅をするようになったのである。また脂っこい物を好むようになった。天ぷらなどは普通で、ホットドックを朝食に三本、寿司なども頻繁に喰うようになった。その唇は擦り付けられた脂によって光を増して、何をしていても絶えず私の視線はそこに注がれるようになったのだ。 風呂上がりの時でもフライドチキンを手に持っている、洗濯ものをするときもポテトチップスの包みが欄干に置かれている程だった。 彼女の瞳は輝き、頬には張りが保たれるようになった。私なぞは最早彼女と話をするのも止め、ただ一心不乱に彼女を見詰めているままだった。彼女は寧ろ以前より話し上手になり饒舌に話しかけてくるようだった。それと共に彼女の外出も始まり、家を二日空けることもざらであった。 到頭彼女は消えた。連絡を入れても少しも返事をしない、ただ留守番電話の声が聞こえてくるだけであった。 今は私がまるで食べない生活となった。食べたところで、寧ろ空しくなるだけなのである。 彼女の唇を思い出す。それは先ず出会った頃は特に眼をかけるでもない、さしあたりのない薄いものであったが、紅が塗られるとその存在が強調されるのだ。その紅も九重のものであり私などには到底想像もつかない各種各様のものが店頭に並んでいると彼女はいつだったか語った気がする。 彼女があれ以上太るとどうなるだろうと考えた。そうなるともう彼女のためにはならない。私はそう考える。誰もが愛想を尽かすであろう。そうなれば私の元にも戻ってくると考える。これは案外と正しい事実なのではなかろうか。そうでないと彼女の唇がまた仰げないことになる。それはいかにも寂しい。 ああ、私はとにかく彼女の唇が見たいのだ。 |
2014/10/10 (金) 23:56 公開 2014/10/15 (水) 16:07 編集 |
作者メッセージ
真打登場。 |
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