どこかのコスモの恋物語 |
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ランダカブラ: 第二回創芸戦 決勝戦 |
それはそれは、切ない恋の物語。きっとそうに違いない、男の女の、あるいは男と男の、あるいは脳の中のどこかに存在する、亡霊たちの世界の物語。 私は女であるはずだ。精神的にも、肉体的にも。そう信じている。閉じた瞼と錐体細胞を貫通した太陽光が脳の赤色チャンネルを刺激し視覚に与えるオレンジ色を意識しつつ、私はそう考える。夕焼けがなぜ赤いのかと純真無垢な、まだ割礼が行われていない児童(この場合、女児も含む。未だ包皮を被ったクリトリス、異物を受け入れることを知らぬ膣口はまさに未割礼である)から問われれば、その仕組みをレイリー散乱とミー散乱の現象を用いて説明することができる。 なぜ私が女の精神と肉体を持ったか、科学の観点から説明できる。精神的側面は脳の物理状態に、肉体的要素はDNAの構造に還元できる。そしてそれらは現代科学でいかようにも改変することができる。人の心さえも物理的な刺激を加えればどのようにでも操作できる、その仕組みは既に数世紀以上前に解明されている。だからギルバート・ライルが行った人間の主観的な諸要素に対する「機械の中の幽霊」という表現は幽霊という観点からの説明に過ぎず、科学という観点の説明からは、科学的に説明できないことなどこの世に存在し得ないのだ。 私が長年ずっと、数世紀前から探している『あの時のアレ』とは、まさにナラタケのような男根そのもの、あるいは男根のようなナラタケそのものでございます。あの時まだ触れると弾き返すような張り艶のある肌を持った女子中学生であった私は、抗えぬ快楽に支配されていたのでした。外部からの物理的刺激(それは酒であり、ドラッグであり、性器への物理的な刺激であり、脳への直接的な電流であり、ありとあらゆる科学的な手段でした)により、そう仕向けられた中学生の私には避ける術がありませんでした。代わる代わる様々な大きさ、カタチのナラタケが私の肉襞を押し分けて入ってき、私は膣内へ潤沢に胞子を含んだ粘性のミルクを放出される度に絶頂を迎え、そしてまた絶頂を迎えるのでした。私の膣口が塩水につけられた貝がぴゅう、と吐き出す水のように大量の精液を噴き出しつつ、私は気を失いました。気を失った私は、夢の中でも大量のナラタケに犯され、何度も何度も絶頂を迎え、絶頂を迎える度にその絶頂はますます大きくなるのでした。私は死んだかもしれなかった。もうそれくらいワケがわからなくなり、肉体も精神も限界を超え、そして限界を超えた亡霊たちの世界を彷徨ったのです。そこにあったのは私とナラタケの融合でした。私はナラタケの一部となり、暗く生い茂った森を掻き分けどんどんと生え進みました。 こうして私は身ごもったのです。そして私に胞子を植え付けた『あの時のアレ』を探しています。正確に言うと、あの時最も大きな絶頂を私に与えたアレを探しています。しかし私はとうとうそれを見つけました。正確に言うと、『あの時のアレ』を超える男根と出会ってしまったのです。それは紛れもなく、私の開いた子宮口、そして拡張された膣を通ってこの世に生を受けた人間の男根でした。彼が小学校高学年になったとき――それはたまたま私が彼の自慰行為を見つけたときだったか、級友と些細なことで喧嘩になり落ち込んでいる彼を私の胸で抱きしめているときだったかは忘れたが――、とにかくそれは至極自然に、しかし唐突に始まったのでした。彼のナラタケはそれはそれは立派なモノでした。私を宇宙へ送りこむ程の絶頂を与えたナラタケのDNAが確実に受け継がれていたということです。そして私は彼の胞子を膣内に受け入れ、それは子宮口を通過し子宮内に入り込み、彼のDNAは私のDNAと融合しました。それはいわば、『小宇宙』でした。あなたは、私――。彼もまた私。我々は全て同じDNAを共有し、一つの山を、そして一つのコスモを覆うのでした。そこではもう、私、お前、彼、アレ、そうした代名詞、ひいてはギルバート・ライル、ソール・クリプキ、加藤鷹、秋吉君、ポッポという固有名詞さえ意味を持たない。全ては私であり、お前であり、秋吉君なのだ。そのコスモの中心で私は叫ぶ。愛している! と。 |
2015/05/29 (金) 23:53 公開 |
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