月 子 |
---|
ヤマモト: 月子祭り参加作品 |
水槽の中で蠢いている灰色の柔らかな物体――ひとつの眼球と、脳。 それが、現在の彼女の姿だ。彼女は体を持たず、顔をも持たない。 しかし私はそこに、魂の炎が静かに揺らめいている有様を、はっきりと認めることが出来る。 そう、彼女は確かにそこにいる。しかし、より正確に言うなら、公的な存在としての彼女は、もうそこにはいない。何故なら、彼女の生命は三年前に日本を襲った大震災によって、喪われたことになっているのだから。だが、彼女は肉体を喪ったのにもかかわらず、読書をすることができる。辛うじて喪わずに済んだ左眼球の動作を利用して、意思表示をすることもできるし、文章を書くことさえ出来る。そして私は、彼女の脳と僅かに残された組織に酸素と栄養を、また、彼女が創作活動を継続していくために必要な文化的情報を不断に送り込んでやることによって、彼女と心を通わせ続けることができる。 そのような環境を作り上げるために、私は妻子と離別し、医学者としての社会的な地位を棄てた。この郊外のひと気の無い住宅で、私は彼女という一つの存在と共に、日々の命を繋ぎながら対話し続けている。 倒壊した家屋の下敷きになった彼女と彼女のパソコンを、私は紆余曲折の末に、この家に運び込んだ。幾つもの法律を私は破った。また、親から引き継いだ遺産を用い、他人に対して金銭の力を不正に行使した。 「狂気の沙汰」と言ってもよいほどの愚行を犯すことに、なぜ私は、これほどまでに情熱を注ぎ込んだのか。医学者としての邪まな野心があったのか?一切の見返りを求めず、純粋に人の命を救いたいという希求に沿うたものであったのか?……それらの理由はいずれも、私の真意を汲み取るための適切なことばにはなり得ない。 震災の当日、担架に乗せられた彼女の姿を目の当たりにした瞬間の精神状態を、どのように言い表せばよいのだろう。それを説明することは、おそらく私には出来ない。だが、そのとき私の胸の裡に兆した一つの「確信」について述べることなら出来る。 ――そのとき私は、恋に落ちたのだ。 それからの私は、自責の念に苛まれながらも、彼女の生命をこの世から消さないことだけを考え続けた。手段や結果に条件は無かった。そして、私の行動は、彼女の意向を何ら省みることの無い、私自身の意思と欲求に根ざした一方的なものだった。 現在の私は、彼女が彼女自身の意志で存在している事によって生きながらえている。何故なら、自然の摂理に反したかたちで彼女を延命させてしまった私の罪は、彼女によって赦されたからだ。その事を彼女は、文字盤と彼女自身の眼球の動きによって私に伝えたのだった。彼女が発した言葉は「ありがとう」の五文字だった。私はその場で彼女にたいして私の愛を伝えた。 彼女との生活が始まってからほどなくして、私は、彼女が罹災するまでに幾つもの小説作品を書き上げており、それらをインターネットの投稿サイトに公開していたという事実を知った。その際彼女が用いていたハンドルネームは「月子」だった。そのとき既に、眼球の動作を利用して文章を書く試みを成功させていた彼女にとって、この投稿サイトに彼女の書いた作品を再び公開させることは、新たな目標となった。だが、長いセンテンスの文章を書き連ねるという作業は、想像していた以上に重い負担を彼女に強いた。 ある日私は、インターネットの巨大掲示板において、彼女の存在が取りざたされているのを発見した。彼女の事は、同好の士のあいだでしばしば話題になっている様子だった。私は巨大掲示板への書き込みを複数回にわたって試み、多くの人々とネット上でのやり取りをした。そうした一連の行為によって、私は「月子」の存在に強い執着を持つ者が多いことを知った。そのとき、短い間ではあったが、私の心は乱れた。彼女の肉体はもうこの世には存在していない。だが、彼女自身の存在が消え果ててしまったわけではない――。そのことを、彼らに直接伝えたいと思ったのだ。しかし結局私は、自身の犯罪行為が明るみになることを恐れて、また、彼女の存在を護るために、巨大掲示板にアクセスすることを止め、彼らとの関係を断ったのだった。 現在、彼女は詩作に専念している。これまでに作られた数篇の詩は、彼女の作品を発表するために私が制作したサイトを通じて公開することができた。 彼女の名前は月子だ。彼女は肉体と、現実社会での名前を、すでに喪ってしまっている。だが、彼女が創作を続ける限り、そして、私が生きている限り、彼女は月子という名の一人の人間として、この世に存在し続けるだろう。 |
2015/06/09 (火) 19:05 公開 2015/06/14 (日) 20:30 編集 |
作者メッセージ
メッセージはありません。 |
この作品の著作権は作者にあります。無断転載は著作権法の違反となるのでお止め下さい。 |