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自らを律しなさい
「前の電車で車内急病人救護が発生したため、この電車は速度を落として運行しております」というアナウンスを聞いて、ああもう遅刻じゃねえか、とつい苛立ってしまった。「車内急病人救護が発生」ってなんやねん「車内急病人救護のため」でええやろがい。これは私の心が狭いのではない、私の自律神経が悪いのだ。自律神経がどのようなものでどのように作用しているのかいまひとつ理解できていないが、鍼の先生が私の不調について「それは季節の変わり目による自律神経の乱れだと思います」と言っていたので(推量であったことから目をそらせば)自律神経の乱れということで間違いあるまい。急病になりたくてなる人などまずいないのだし、それよりも遅刻ぎりぎりに家を出ている私の方が悪いし、そもそも労働なんてクソなのだから遅刻しても大した問題ではないのに、自律神経が乱れているので苛立ちがおさまらなくてよくない。

 今日は寝起きからだめだった。15年前に大往生した愛犬が夢に出てきて、年に1回しか洗っていなかった愛犬の匂い(臭い)を思い出すという感傷的な目覚めで泣きそうになり、まあそれは切なくも温もりのある“よい情緒不安定”といえなくもなかったのだが、出勤のため自転車に跨ったところ前輪の空気が抜け、明らかにパンクしていたにも関わらず往生際悪く4〜5度空気を入れなおしてみて(医療ドラマでよく見る明らかに助からないのに除細動器で何回もバーンとやって蘇生をこころみるやつみたいな粘り腰)、いよいよパンクの事実をみとめて癇癪を起こして空気入れに頭突きしたところで“悪い情緒不安定”にシフトチェンジした。全部自律神経のせいだ。

 ここ最近、毎日えもしれぬ不安や苛立ちにさいなまれているのも自律神経のせいだ、だから大丈夫だ、まもなく季節が安定して自律神経が整い落ち着くはずだ。しかし自律神経の乱れによる不安と苛立ちとはいえ、その根本は物価高騰による生活の不安、低い収入、労働のストレス、人間関係、親の老後などなどうんぬんかんぬん、そもそも自律神経が乱れていようがいまいが考えるべき課題であり、改善のために行動すべきもので、実はまったくえもしれなくない不安と苛立ちで、それを普段見ないように考えないようにしている「自律神経の整い状態」こそむしろ間違っているのではないか? ……とか考え始めるとさらに悪い方へ思考が流れていきそうになって、とりあえずすべて忘れるため昨夜深酒をしたのもよくなかった。あといまひとつ食欲がないのに「カロリー摂れば元気になるかも」と昨日の夕飯にラーメンとチャーハンというデブのハッピーセットを食ったせいで胃ももたれている(別に元気にもハッピーにもならず、ただ脂肪になった)。自律神経の乱れ、二日酔い、胃もたれのトリプルパンチ。車内急病人に苛立つ前に自分自身の体調をなんとかしろよ。若いころは年を取ればいろんな悩みがどうでもよくなると思っていたが、むしろ解決しようがない悩みが積み重なっていく一方だ。

 満員電車のなかやることもなく、見ないほうがいいと思いつつ株価をチェックすると、少しだけ上がっていてようやく苛立ちが収まる。将来の不安にかられて始めた素人投資がトランプショックで含み損になり吐きそうだったが、ぎりぎり含み益に戻っている。日々の株価に一喜一憂する人間は投資に手を出すべきではないが、もう手を出してしまっているので、手を出す前には戻れない。恋愛と一緒ッスね! せめて情緒不安定なときは株価を見ないようにしたほうがいい、株価を見さえしなければ、シュレディンガーの株価は上昇と下降が共存し答えがなく、ともすれば100倍になっている可能性だってあるし。少し機嫌が戻ったついでに会社に「電車が遅延しており、少し遅れるかもしれません」と連絡を入れる。社内チャットを見ると思考が労働に引っ張られる。本当は何も考えたくない、自転車ならば漕ぐことに集中できるのに、電車だと暇で思考せずにはいられなくてつらい。昨夜退勤前に来たメール、外注先がなぜかこちらの提示した話とぜんぜん違う予算と内容で出してきたやつ、もう帰りたかったので見ないふりしたけど、今日は返信しないといけない。少し意地の悪いものいいをしなければいけない。労働においては“優しく指摘”よりも“意地の悪いものいい”をしたほうがたいていスムーズに進む。“行儀のよい客”よりも“クレーマー”が優先されるという悲しき事実がある。労働を介した相手ならば多少嫌われてもあまり気にならないという開き直りもある。そうしてみんな少しずつ意地が悪くなっていくんです、度を越した極悪人をこてんぱんにしてスカッとさせるようなクソフィクションで溜飲を下げようとするんです、この世のすべての争いは労働のせいなんです、と教育で教えておいてくれ。

 シャッフル再生にしていたApple Musicから岡村孝子の「夢をあきらめないで」が流れてきた。すべてをあきらめて目をそらすことでかろうじて生き延びているアラフォーが聴くべきではない、そもそもライブラリに入れた覚えがない。岡村孝子は「OLの教祖」と呼ばれていたらしいが、彼女を教祖と崇めていたOLたちの夢はなんだったのだろう。あきらめなかった彼女らは夢をつかんだだろうか。岡村孝子の歌声を聴いていると夢に向かって頑張るべきだという気もしてくる。私の夢は自律神経が整ってくれること。あとロト6が当たることだ。孝子、おれは夢をあきらめないよ。だから今日ロト6を買うよ。すべての悩みを吹き飛ばす、609万分の1の抜本的解決方法。2億当たったら何しよう、と世界で一番甘美な妄想をしているあいだに駅に着いた。

 外の空気を吸ってようやく人心地つく。車内で病に倒れたらしい彼もしくは彼女は元気になっただろうか。元気になっていますように、と願う。この願いは贖罪でもあり、徳を高めることでロト6の当選確率を上げるためでもある。走ればなんとか間に合いそうだが、今日は歩く。自律神経が乱れていようがいまいが働かなければいけないし、日々は続く。無理はするまい。

2025年4月15日 通勤電車にて

2025/04/15 (火) 20:18 公開
2025/04/16 (水) 00:16 編集
作者メッセージ
なんかもうだめなやつ
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