追憶のレシピ |
覆面ジャッジ: 食欲の秋祭り参加作品 |
別れの間と呼ばれる拘置所内の部屋で、真っ白な男が屹立し小林雄二を待っていた。 小林は息を詰めた。そうか。と自分の願いが叶えられたことに小さな歓喜があふれた。背後の刑務官に敬屈し、椅子を引き寄せる。 「では」とCook coatの男がよくとおるバリトンで説明をはじめる。 まず、下ごしらえをした小アジを160度の鍋で揚げ、油を切り、薄く輪切りにした玉ねぎとにんにくローリエ、それからクローブをフライパンにおとし、熱したオリーブオイルで絡め、玉ねぎがぱちぱちと踊り出したら、火から逃し、塩コショウをふります。 つぎに、小アジを180度の油で二度揚げ、素材と小アジをていねいに馴染ませひと晩ようすをうかがう。この料理は、ポルトガル語で、「carapaus de escabeche.アジのエスカベーシェ」と呼ばれています。 「どうぞ、ご堪能ください」 料理人の、説法を彷彿させる口調に、小林が両手をあわせた。 小アジにマリネを絡め、鼻先を経て口へ――味覚を堪能するのか、マブタをきつく閉じた。「うまい。だが、オレがあの家で満足したのは、メインの鍋料理だ」おそらく間違った情報が料理人に伝わったのだろう。 あの家―― 公園の水も三日つづくと絶望のフチがだいぶ危うくなる。小林はしんしんと躯にまとう夜気を払うように、泥で汚れたブルゾンをバタバタ震わせ、ぎゅっと両手で躯に密着させた。 公園の時計に顔をあてる。九時をすぎた。その向こうには星明りさえない漆黒の闇がひろがる。不安定な足もとに躯が揺らぎ膝を着く。そこに金属パイプが夜露に濡れ無機質な牙を剥き出しにしていた。「これでコンビニでもヤルか」だが、小林は一弾指のおもいを押し留めた。 住宅街の灯りが網膜に滲む、もう、夕食はすんだのだろうか。つい半年前までは小林もその階級のなかにいた。美しいとはいい難いが、賢才な年下の妻。高校生の娘と、やっと授かった小学生の息子。こんな空気が凍てつく夜には、美食家の夫のためにフォン・ド・ヴォーの鍋が、帰りを待ち構えていた。じわり胃をぬくめるスープと、明日の滋養につながる肉や野菜。 経営していた自動車修理工場は順調だった。が、不幸は突然やってきた。工員が、預かりの高級車二台を駆り出し公道レースに及んだ。二人は即死、数台の車が事故に巻き込まれ大破している。 氷雨が頬に張りつく。 刹那、胃にちくりとした痛楚を覚え腹に手を添える。空洞のよじれた胃壁が互いの酸にひくついた感覚がある。激痛をおさめるため、魚なり野菜なり、熱いスープなりを処方すべきだと脳がざわついた。 勢いを増す雨のなか、手にしたパイプを杖にふらつく小林の鼻腔が、ほっとする安らぎを嗅ぎ分ける。通りの一角に視線をあてた。おそらく手練の建築家がこだわりをみせたのであろう。白亜の意匠が街灯に霞む。 雨は豪雨にかわった。雨水でおもいのままにならない手を奮い立たせ、勝手口をパイプで捩じ開ける。外観に相違してセキュリティは疎かだ。ほっとした表情を浮かべた小林は、キッチンからカウンター越しにダイニングを眺める。そう若くはない夫婦が食卓で談笑していた。 「何か残す言葉はあるか」刑場と一枚の布で仕切られた部屋に小林はいる。かれは瞑想した。床に転がっていたという夫婦など記憶にない。ただ、料理にわずか不満があったことをおもい出した。「オレは新鮮な、柔らかい肉が、喰いたかっただけなんだ!」そう、法廷でも証言した。その言葉に検事が憤る。「腹を満たすことばかりで、二階で泣く子まで殴り殺したことに反省はないのか」そのとき、被告人の貌がわずかに歪み、舌舐めずりをした。 小林は、視界を塞がれ闇に引きこまれた。白いカーテンの奥の部屋。そこへ誘われるようだ。男たちに導かれ歩を踏み出す。足もとの感触が違うことに気づく。そして首に違和感を覚えた瞬間―― 「『最後の晩餐』か。恩赦の日のおこぼれで叶えられたんですね」 「あいつ、執行の朝まで、あの料理が喰いたいって懇願してきたからな。根負けだ。しかも、最後まで、食欲の我ばかりで反省なし。一家三人殺害……ああ、愛らしいイヌまで惨殺だったか」 「イヌは、マグロの解体ショーのような状態だったらしいですね」 刑務官らは憂鬱な気分がさらに沈みこんでいった。 |
2014/10/06 (月) 08:11 公開 2014/10/09 (木) 13:04 編集 |
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