敗者のカツサンド |
Kindle厨: 食欲の秋祭り |
暗くなることのない夜空に、街並みが浮かび上がる。夜の湿っぽい空気を吸いながら、歩道に散る枯葉を踏みしめた。午後八時過ぎだが、住宅街だからか、あたりには誰もいない。目的の中井公園に辿り着いた。 フェンスで囲われた外周の内側に銀杏が等間隔で植えられていて、中が見えない。蛾が群がる街路灯が電話ボックスを不気味に照らしている。背もたれつきの青いプラスティックベンチに腰かけて、ブラックニッカクリアの小瓶を呷る。口内に痛みが走り、鼻から息を抜くと、鼻腔内にウイスキーの芳香と共に強い刺激が広がる。一八〇cc入りで三百円程度というコンビニでも買える安酒だが、味は悪くない。酒が弱い男には、癖のないブラックニッカはむしろ飲みやすかった。半分ほど開けると、食道が焼けて、熱を帯びてきた。 瞼を閉じると真っ暗闇になり、すぐに無心になった。アルコールによって帯びる身体の熱だけが、生きている証だった。こうしていると、ふいにいいアイデアが浮かぶ。経験則だった。何も思い浮かばない……しばらくして、白い歯を見せて、口から酒臭い息を漏らした。もう俺も駄目かも知れんな。胸の裡で悟ったように呟いた。 原稿の締め切りは明日だった。元は勤め人だったが、小説誌で新人賞を貰って退職。上京しバイトしながら活動したが、流行作家にはなれなかった。続々とデビューする後発組に押されて仕事は減っていき、大御所が病気で執筆できなくなった短編小説の穴埋めとして回ってきたこの仕事は、実に三カ月ぶりに貰ったものだった。この好機をものにできなければ引退しよう――そう決意していた。 「俺の作家人生、ここまでだったらしいな」 吹っ切れて、諦観の笑みを浮かべて立ち上がった。仕事を貰ってからというもの、ストレスと重圧とですっかり食欲が失せ、夜、満足眠ることもできず、憔悴しきっていた。元気が出てくると、急に腹が空いてきて、睡魔まで一緒に襲ってきた。 そうだ、俺の事を書けばいいんだ。賞を貰ってからこれまでの五年間を原稿用紙にぶつけてやればいい。依頼された四百字詰め原稿用紙換算で八十枚くらい、余裕で埋められる。これが俺の、プロとして最後の作品だ。 ブラックニッカの小瓶の中身をその場に捨てると、コンビニまで走って牛乳とカツサンドを買い込み、自宅に急行した。築四十五年、家賃三万の二階建ておんぼろアパートで、住んでいるのはみな不法就労の外国人や高齢フリーターという低所得層の巣窟だった。四畳半の部屋には、本棚と机、ノートパソコンしかない。冷蔵庫がないのは、食べ物は友人から貰うか食べ切りの見切品のみで、必要がなかったからだった。ノートパソコンの電源を入れて、ワードを立ち上げると、狂ったようにキーボードを叩いた。驚異的な集中力で八十枚書き上げて脱稿した時にパソコンのモニターで時間を確認すると、午前五時過ぎだった。 メールで出版社に原稿を送信すると、心地よい疲労感を覚えながらノートパソコンを折り畳み「ぷはあっ」とテーブルに突っ伏した。仕事を終えた開放感から猛烈な睡魔が襲ってきたので、慌ててカツサンドを口に放り込み、牛乳で飲み下した。カツサンドと牛乳は、この作品で勝負して勝つぞという、作家業で徹夜した時の験担ぎであり儀式だった。既に筆を折る決意をした男には不要なものだったが、普段の習慣から、ついついやってしまった。食欲が満たされると、幸福感に浸りながら、眠りについたのだった。 |
2014/10/08 (水) 22:36 公開 |
■ 作者<jEvc7Wlr> からのメッセージ 作者からのメッセージはありません。 |
この作品の著作権は作者にあります。無断転載は著作権法の違反となるのでお止め下さい。 |
無骨で内容本位で、庶民的ですが適当に高価で、食べ応えがあり、カレーライスのように「和食化」してる一方でジャンクフードにもみえるという、何かを失いかけていた人が人目をはばからずに奮起する「燃料」としてちょうどいい感じがします。この筋だと作業しながら食えるのがいいです(けどそうしてない。文に詰まったときにカツサンドを囓ってがんばってほしい。囓ることが主人公が何かに齧り付くことに通じているのではないでしょうか)。作者は勘のいい人だと思いますが、だったらなんで受けの悪そうな設定をとってしまったのか。作者は揶揄しているのか(お勧めしません)、応援しているのか共感しているのか、そこから決めて逆算して描写を決めないと、やっぱり反感をもたれる気がします。