空の子 |
もりそば某: 月子祭り参加作品 |
毎日同じ仕事をしていれば、少しくらい集中力が散漫になっていても手は動く。 私は職場の病院の分娩室で、生まれたばかりの赤ちゃんの口からカテーテルで羊水を吸い出している最中だった。 ここにいるのは助産師の私のほか、今生まれたばかりの赤ちゃんと――。 「あたしの考えた名前の方が似合ってる、絶対!」 「いいや、僕は君よりも真剣に考えている。僕の方が正しい!」 私の目の前で絶賛口論中の夫婦だ。 奥さんの方はまだ分娩代の上に乗ったまま。 出産の最中は、産みの苦しみに耐える奥さんとおろおろするばかり旦那さんといった、いたって普通の光景だった。なのに、赤ちゃんが生まれて二人が最初に交わすのはどんな言葉だろうと思えば「ところでさっきの続きだけど!」と言い争いを始めていた。 そういえば、救急隊員からの申し送りに『奥さんがかなりの興奮状態です』というのがあったっけ。まさか救急車の中でもやりあっていたわけじゃあるまいね。元気があるのは結構なのだけど。 『どう思いますか! 先生!』 夫婦がこちらに振ってくるのと、赤ちゃんの産声があがったのは同時。そのせいか、赤ちゃんにまで詰め寄られているような気がしてしまう。 「お静かに。奥さんもお疲れでしょうし……、赤ちゃんもびっくりされていますよ」 私は無理やりに笑顔を作って、無難な返事をするにとどめた。 何しろ、まだ母胎には胎盤が残っているし、へその緒をこれから切るところ。喧嘩はよそでやれと追い出すわけにもいかない。 二人の様子から、素直に聞いてはもらえないだろうと思ってのだけど、夫婦はぴたりと口を閉ざしていた。途端にやさしげな顔をして自分たちの子の声に耳を傾けている。 「……、元気に生まれてくれてよかった」 奥さんがぽつりと溜息をこぼす。そうそう、出産後はこうでなくては。 「うん、いい声だね……、きっと僕が考えた名前がいいって言ってるんだよ」 「っ! まだ赤ちゃんは私と繋がっているのよ、そこから伝わってくるの。お母さんの考えた方がいいって!」 へその緒、もう切っちゃったんですが。 親なんてやはり、子供には勝てないものね、と、しんみりしかけていた矢先だったのに。一瞬にして再燃してしまう。 母子共に健康で切開もなければ、産後の縫合も必要なし。生むまでの時間はかかったものの、それ以降の処置は喧噪をよそに極めてスムーズに進む。 抱いてあげてください、と赤ちゃんを奥さんの胸に納めても二人の調子は相変わらずで。赤ちゃんはなぜか楽しそうに笑っている。 「――と、これで終りです。赤ちゃんは新生児室で、奥さんは病室で一日おやすみいただきますね」 と告げてはみたけれど、誰も聞いていない。 私は立ち上がって、分娩室の窓を開けた。 六月の少しぬるい夜風がさっと舞い込んできて、部屋の中の空気をかきまぜる。頭を冷やせというわけではないが、気分を入れ替えてやればもしかしたら。そんな狙いがあったのだ。 「外、まだ明るいな」 旦那さんが窓の外を見上げ、奥さんがそれに続く。少し欠けた月の明りに染まる、雲一つない夜空の静謐さが部屋の中に満ちていた。自分の、夫婦の、そして赤ちゃんの息遣いが聞こえてきそうなほどに。私たちは少しの間、空に魅せられていた。 「名前、思いついちゃった」 振り向くと、奥さんがいたずらっぽい笑顔をしていて、それは旦那さんの方も同様。二人は顔を見合わせて笑みを濃くし、そして、同時に口を開いた。 『この子の名前は月子にしよう』 やさしく笑いあう夫婦と、それを見上げる生まれたばかりの子供の姿。私がその一瞬を忘れることは無いだろう。それほどまでに絵になる光景だった。 「私の方が先に思いついたんだからね!」 「僕の方が、コンマ、ゼロイチ秒先だ!」 そう思えばくだらないことを巡って一瞬で火のつく二人も、見ようによっては明け透けな晴天の空のようだと言えるのかもしれない。 『どっちが早かったですか! 先生!』 だけど、夜空、とはいかないみたいだ。 赤ちゃんは両親の口論が子守唄にでも聞こえているのだろうか、安心しきった様子で微睡みはじめていた。 |
2015/06/05 (金) 21:06 公開 2015/06/16 (火) 02:38 編集 |
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>>1
>視点ブレ
これは最初何の話なのかと思いましたが、スレの方で指摘されたように向きがおかしいということでした。
指摘があるまで全く気づけなかったのですが原因は簡単なミスですね。
文を入れ替えた際にチェックから抜けていました。
文章に引っかかりを覚えたのはたぶん、過去調の地の文に口語調が中途半端に混じっているからかと。
アクセント狙いとはいえもう少し混ぜ込み方が自然になるように工夫が必要ですね。
>>3
すみません、思い切り赤ん坊を小道具として使っています。
子供の感性の豊かさというものが生まれたばかりでも同じなのではないか、というのを前提としています。助産師が自分の目からは分からない夫婦の本当の姿を赤ん坊の様子から知る、といった仕掛けですね。
それを補強するために主人公が多くの赤ん坊に接している職業に、といった具合です。
夫婦は家でもあんな感じだったのでしょうから胎教に悪いどころの話ではすまないのですが。
>>4
といった方向性で書いたので、特に裏の意味はなくて単純な力不足となります。
>>6
文章の瑕疵についてあれこれ露呈しちゃっているしワイ杯も無理だろ。
>>7
構成不足でした。今思えば主人公には少しハラハラとしてもらって最後にストンと落とすようにすればよかったなと。
>>8
ツッコミ感謝です。指摘のあった辺りは頭を捻ってもそれくらいしか出てきませんでした。空を見上げた瞬間を印象的に書きたいとは思ったのですが。
>>9
明け透けな晴天の空のようだとすると昼の空が連想され、そんな夫婦を好ましいと思う反面、月は夜空に映えるもので一言で言えば静かにしろよ。
と主人公が思った、なんてそのまま書くとくどそうだったのでぼかして短くしました。
>>10
確かに名前についてから離れてしまうと、アクセントでも済まない引っかかりになってしまいます。
気をつけるべきでした。
>>11
>一行目
ベテランだから騒がしいくらいでは動じない、くらいの意味で書き始めましたが前の方でちょっと触れたようにハラハラさせた方が良かったのかもですね。
全く別の切り口からというのも考えられますが、現状ではこれで手いっぱいです。
>テンポ
こちらについてはまだ感覚的にピンとこないのですが、上と併せて今後書いていくうちにそういう部分もコントロールできるよう気をつけてみます。