一万円さきいか |
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毛を植えた男: 食欲の秋祭り |
店頭にあるハヤシオムライスのモックを見て、若林大輔は涎を垂らした。 「大ちゃん、それ相当食べたそうね」 「そりゃあそうさ。何しろこいつは、僕のいっとう好きな食べ物なんだから」 大輔が生まれ育った土地は、東京大空襲で爆撃を受け、代々銭湯を経営していた若林家も、例外とならずその戦火の被害を受けた。復興資金等で何とか建て直すも、六人兄弟と多かった若林家の家庭では、オムライスなどを提供することは、経済的にも手間を考えても難しかった。「一つ上のあにいと映画の帰りに」大輔は言った。中学生の頃、おかあがあにいと映画を見に連れてってくれた。スピルバーグからウッディ・アレンまで色々だよ。映画を見た後に洋食屋で食事をしたんだけど、そこのオムライスを初めて食べて衝撃を受けたよ。こんな食べ物が世の中にあるなんてね。ご飯が卵のクレープにくるまれてシチューまでかかってるなんて、何て贅沢な食べ物かと思ったね。そして何とも美味しい。その食堂に行くたびに、ステーキやハンバーグやパスタを無視して、ずっとそのオムライスを頼み続けたんだ。その洋食屋ではね、映画の感想を発表するんだ。俺とあにいが。おかあはそれを見て頷いたりたまに質問をしてくる。でもどうやら、おかあは毎回僕の感想の方がもっと的を射てると、そう考えている様子だったよ。 そう、堰を切ったように話出す大輔を美穂は見て、可愛らしいと思った。 「でも大ちゃん、これを食べちゃうと上で遊ぶお金がなくなるよ。夜は昨日のすいとんで我慢する代わりに、乗り物乗るんでしょ?」 「そうだった、ごめん」大輔は答えると美穂の手を取って、その場から離れた。 二人がいるのは、ダウンタウンに突如出現したエンターテイメントビルである。通天閣のようなデザインの建物は夜は七色にライトアップされ、何と屋上からはトロッコで電車の最寄り駅へ直通している。”子どもから大人まで楽しめるデパート”がコンセプトの通り、下の階から食品街、ドラッグストア、UFOを模した円盤を飛ばすおもちゃなどがある子どもフロア、アパレル、ブティックと続き、レストラン街、飲み屋街、大人のための歓楽街と続いていく。屋上には”海底2万海里”という乗り物があり、若者の間で大きな反響を呼んでいた。 受付を済ませトロッコに乗り込むと、大輔は鞄からビールを取り出すと、「ここなら誰も見てないだろう。なに、終わるまでに飲み干すよ」と言い、プルタブを引いた。すかさず隣に座った美穂が、はい、これ、と言って一万円札を取り出した。 「何これ」大輔が問うと、「さっき地下で買ったの。つまみに良いでしょ」と言った。それをよく見ると、一万円札の絵柄が印刷されている薄いポリプロピレンのシートで、中にはさきいかが入っているようだった。 「はっはっは、こりゃあいい」大輔はよく自分たちの心情を顕していると思った。確かに経済的に余裕は無い状態だ。たとえそれがお菓子であっても、お金に関するものなら何でも得たいと思った。しかし同時に、そんな風にお金のことであれこれと悩むのも馬鹿らしく、お金など捨ててしまいたい気持ちもある。トロッコはイルカが跳ねる海を渡って洞窟に入った。若林夫妻はプランAからCまで考え結婚した。やがて美穂が懐妊したことで、必然的にプランAを実行することになった。それは二人の間で最も好ましく幸福な未来の筈だった。しかしそれを実行するにはいくらかの資金が必要だった。大輔はサラリーマンとして働き、美穂もパートをしたが、それでも十分とは言えなかった。金銭的な問題によって生活の自由が縛られることについて、大輔は不満を持っていた。だがそれももう少しの辛抱だった。海底2万海里というだけあり、ほぼ直滑降に暗闇を降下する仕掛けがあった。美穂はきゃあと叫び、大輔のゴツゴツとした大きな上腕二頭筋にしがみ付いた。結局その後は大した仕掛けもなく、ネオンのクリオネたちによる深海のダンスショーや、マスコットキャラクターの”ホオジロッシー”による魚100匹連続踊り食いを見せられただけだった。 「ちぇっ、大したことなかったな。あんなに大々的に宣伝して」トロッコから降りた大輔はそう言って、一万円札のビニールを宙に投げた。するとそれはUFOのようにくるくると舞い、地面に落ちた。それを拾い、「駄目だよ、お金を粗末にしちゃ」と言う美穂に対し、大輔は思った。お金なんて、みんな消えてなくなればいいのに。そうしたら、これから下の階で、下品な連中の前であんなことやらなくて済むのに。 |
2014/10/10 (金) 23:36 公開 |
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