それは私ですよ |
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浦島: 第二回創芸戦参考作 |
「お茶にしませんか」 「ばあさんや、お前には本当に申し訳ないことをした」 「なんの話ですか、おじいさん」 「わしはお前を裏切ったんじゃ。浮気じゃ浮気」 「そうなんですか」 「去年の……庭の柿が見事に成っていたから、秋じゃな。そう、あれは本当に見事な柿じゃった」 「柿の木が有ったのは前の家ですねえ。三十年も前の話ですよ、おじいさん。でも、あれはいい柿の木でしたねえ。毎年美味しい柿をいただきましたよ」 「うむ。甘くて美味しい、大きな柿じゃった。おいばあさん、一つ剥いてくれんか」 「はいはい、ちょっと待っててくださいね」 暫くして、お婆さんは羊羹とお茶を小さなお盆に乗せて戻ってきました。 「お、婆さん」 「はい、おじいさん、お茶をお持ちしましたよ」 「うむむ……」 暫く二人して茶をすすりました。 「ありがたいのう、こんな甘いものがあって」 「ありがたいですねえ」 「ばあさんがいてくれて、わしは幸せ者じゃ。」 「私もですよおじいさん」 「ばあさんは、出来た嫁じゃ。こんなにいい嫁をもらえたのは、兄弟でわしだけじゃ」 「あらそんな事はないですよ、お義姉さんはしっかりした方でしたし、みさこさん……あの方は、ずっと東京ですから私はよく知りませんけど、弟さんとうまくやっているみたいですよ」 お爺さんは、羊羹をかじりながら数分庭を眺めました。 「もう一度言ってくれんか」 お婆さんは話を短くしました。 「お義姉さんは、いい方でしたねえ」 それを聞くとお爺さんは目を輝かせながら苦笑して言いました。 「いやー、あの女は、かなわんよー、図太くて。あの健康優良児は。兄貴がラバウルから戻らなかったら、わしが災難だったよ、わはは」 「そんな事をおっしゃって」 お婆さんも笑いました。 「わしの方は、次男だし、戻っても貰わんつもりだったんが、いま幸せ者じゃ」 「いえいえ」 夕方が始まろうとしています。 「ばあさんや、お前にはもうしわけないことをした。本当に後悔している」 「なんでしょうかお爺さん」 「その……浮気を……してしまったんじゃ」 「あら」 「この前の、あれよ、ほら」 お爺さんは何らかのジェスチャーをしました。 「ゲートボールですね」とお婆さん。 「うん、ゲートボールで、初心者さんだったのよ。そんで、班長も何も言わんもんだからよう、私はそういう事はなるべくやらん事にしてる者なんだけど」 「初心者さんを教えてあげたんですよね」 「うんそんでほら、班長が何も言わんもんだから、私が教えてあげたのよ」 「ありがとうございました」 「ゲートボールをよ。そんで、お茶をしませんかって、その初心者さんから言うもんだから」 「その初心者さんは、私ですよ。おじいさん」 「いやばあさん、ゲートボールに初心者さんが来ていてよう」 「だからおじいさん、私ですそれは」 夕方の鳥が充分に鳴いて、お茶が冷めました。 「あら、そう?」 「はい」 「こりゃ、どうも」 「いえこちらこそ、ありがとうございまいした。ゲートボールも、またやりたいですねえ」 そう言ってお婆さんは箪笥の隙間で埃を被っているゲートボールのクラブを見ました。 「うーん、腰がよう。あれは腰を悪くするとだめだね」 「今日は調子はいかがですか」 「うーん?」 その声をきいて、今日はお爺さんは腰の調子がいいのだと、お婆さんは思いました。 「あんたはいい嫁さんだねえ」 「お爺さんもいい旦那様ですよ」 「そう? そうか?」 「はい」 「でもわしはほら、色男だから、申し訳ない事をしたよ」 「そうでもないですよ」 お爺さんは急に改まってお婆さんの方を向きました。 「いやっ、ほんとこれは、申し訳なかった。婆さんは、わししか知らん女だっちゅうことはよくわかってる。しかしわしは、裏切っていた」 「まあ」 「わしには好きな女がおった。郷で一番の美人さんで、そりゃあ、もう、男はみんな夢中じゃった」 「あら、まあ」 「しかし、あれよ、かなわぬ恋ってやつよ。わしは次男だから」 「ひょっとして、義姉さんの事ですか」 お爺さんはきょとんとしました。そして眉間にしわを寄せながら目を輝かせて笑いました。 「いやー、あの健康優良児は。違うよ、わはは」 お婆さんも笑いました。 「いや、ほんと、危なかったのよ婆さん」 お爺さんは真顔になりました。 「兄貴がラバウルから戻らなかったら、あれがわしの嫁になっとった」 「そんな風に言ったらわるいですよ、お兄さんにも」そう言ってお婆さんは仏壇を見ました。 「そうか? あれはあれで夫婦、仲良くやっとるんよ、ぶさいく同士、気持ちのわるい」 「こら、おじいさん」 「わはは」 「しかしわしはかわいい嫁をもらえて幸せじゃった」 「いやですよお爺さん」 「あんたは最高よ。今はそりゃもう、あんたですよ。でも、若い頃、わしには好きな女がおった。そりゃあ、かわいくてのう」 そこでお爺さんは注意深くゆっくりと言葉を選ぶように、 「若いからだよ? その頃はわしも。若い男だから、女は見た目見た目でよう、しょうがない。今だったら、そりゃ、あんたよ」 「ええ、ええ、どうも」 「そんでその美人がよ、酒蔵の一人娘で、誰がもらうかって言ったらよう」 お爺さんは一本指を立てて言いました。 「杉春さんが帰ってきたら、まず杉春さん、そんでだめやったら、うちの兄貴だろうって話だった」 「そうでしたねえ」 「でも杉春さんはあれ、結局戻ってこられんかったから」 「残念でしたねえ。どうされたんでしょうねえ、ほんとに」 お婆さんがやんわりと窺うと、お爺さんは急にちょっとだけむっとしたようになって言いました。 「いや、そりゃよく知らんわワシは」 お婆さんはいつも不思議に思いますが、この話はこれ以上は訊かないと四十年も前に決めています。 「杉春さん」は脱走兵で、その顛末についてお爺さんは知っていたし、今もはっきりと憶えていますが、誰にも喋らないと、これもまた四十年以上も前に決めています。 「ほんで、兄貴がもらうって話になってたんだが、そこよ、あの健康優良児さんが兄貴にべた惚れでよう、兄貴も兄貴で、あれに骨抜きにされとって、アレがよかったんだろうかねえ」 「こら、おじいさん」 「そんだから、わしは兄貴に何も遠慮は無かったんだけど……こっちは次男で、あっちは蔵の一人娘だから、なかなかねえ」 「なかなか声をかけてくれませんでしたねえ」 「そ、でわしは東京に、職が決まったのよ」 「その酒屋の娘は、私ですよお爺さん」 「んー?」 |
2015/05/31 (日) 17:12 公開 |
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